つないでて
「で、あんたたちもう寝たの?」
手を滑らせ、持っていた皿を思いきり床に落とした。皿が割れる音が少々豪快に響き渡る。その音を聞いて、外で薪割りをしていた彼女の弟が血相を変えて戻ってきた。
皿を落とすなんて、おそらく十数年ぶり。
「な、なな・・・」
「なーに動揺なんてしてんのよ。あーもー、お皿割っちゃって・・・」
それをあなたが言うかと言い返してやりたかったが、熱のまわったこの頭はそこまで回ってくれなかった。床下には、無残にも粉々となった白い皿の破片が散らばり、むしろキラキラと煌めき美しかった。
「僕、ほうきとちりとりもってくる!!」
「ま、待ってルシアン、いいからっ・・・」
ここにいて頂戴と静止するまでもなく、彼は掃除用具のある倉庫へと一目散に駆けて行った。片付けなんて後でいいのだから、とりあえずこの場はここにいてほしかった。今の私には、彼女の暴走を食い止められるだけの器量を備えていなかった。
「で、どうなの?」
ただ一つだけ、彼女の教育係兼保護者がこの場にいないことだけは救いだった。
とりあえずしゃがみ込み、大きめの破片を先につまむようにして拾い上げ、袋へ入れていく。彼女もそれに倣ってしゃがみ、少々危うげに一つ一つ拾い始めた。
彼女の話の中で、わたしの相手役とされているであろう居候は、現在野菜を受け取りにいくという指令を言い渡しており不在である。ようは、彼女にとってこの状況は、気になっていたことをハッキリとさせる絶好のチャンス。逃すものかと瞳をキラキラ輝かせながら私の顔を覗き込んでくる。
大きく息を吸って、
「別に・・・なんともなってないよ」
それは、紛れもない真実。ただきっと、声が上擦ってしまったのがまずかったんだと思う。
「別にごまかさなくったっていいじゃない」
「ごまかしてなんかないってば!――そもそも、なんでそういう発想になるのよ!!」
まず聞き方からおかしかった。何かあった?とか、キスした?とか――まずはそういった可愛らしい事象から来るものではないのだろうか、こういった恋愛話の場合。中ボスを飛ばして、いきなりラスボスへ挑戦するようなものだ。
「だって、一つ屋根の下に男と女が二人きりで住み始めてもう二か月になるのよ?」
何もない方がおかしいってもんじゃない、と息巻く。
「それにみんなだってそう思ってるわよー」
それは、ちょっと困る。
「・・・そのみんなって誰よ」
「あたしでしょ、ポムニットでしょ、・・・」
そこで、彼女の言葉が止まった。ルシアンはそういった恋愛話が苦手なので、盛り上がらないことは明白である。ポムニットさんは、もとより恋愛話が大好き。そもそもきっと、この話だって彼女が発端に違いないのだ。
「ほら、またけーーーっきょくは二人で盛り上がってるだけなんじゃない」
「ち、違うわよ!!だいたいねぇ・・・」
フフンと不敵な笑みを浮かべた。これは、何か切り札的なものが来る・・・そう直感して身構える。怯むことなく、すぐに言い返してやれるように。が、いくら身構えたところでどうにもならない台詞が彼女の口から飛び出してきた。
「あんたがアイツのこと好きって、バレバレなんだからねっ!」
「なっ・・・!」
予想していなかった切り札だった。用意していた切り替えしは何処へやら、そのままうっかり言葉を失ってしまう。
「フフン、ばれてないとでも思ったわけぇ?」
こちとらだてに年中ポムニットのコイバナにただ付き合ってるだけじゃないのよ!、と得意げな顔をしてにじり寄ってくる。
「で、どうなのよ」
「ううう・・・」
彼女が一歩足を進めるごとに、こちらは一歩後退する。
「ほらほらぁ、さっさとはいちゃいなさいよ」
「あ、あのね・・・っ」
一歩前進、一歩後退、を繰り返しているうちに、背がドンッ!とカウンターにぶつかる。行き止まりだった。もう逃げられないわよぉ~、とさらに詰め寄ってくる。これぞ絶体絶命の大ピンチ。そうでなくとも、そうですと認めない限りこの場から逃げられない雰囲気であった。
そこへ、外からばたばたばた、と足音が聞こえる。その音を聞いて、リシェルが舌打ちをした。その数秒後、バタン!と音をたてて扉が開かれた。そこには、先ほど出て行った彼女の弟がほうきとチリトリをもって立っていた。
「フェアさん、持ってきたよ!・・・って、ねえさんも何してるの?」
「る、ルシアン~~」
これぞ天の助け!と少しばかり情けない声を出しつつ、助けを求める。が、そんなことお見通しですよと行く手を遮った。
「ルシアンに助け求めたってムダよ。あのねルシアン、フェアったらアイツのことが好きなんだって」
「リシェル!」
本当にもう、いったいどこのいじめっ子だ。こんなやりとりを、どこかで見たことがあるぞと眉をしかめる。ああ、そうだ。まだ私たちが幼かったころ、いつもリシェルがルシアンに、私が誰だれを好きと嘘をついては泣かせていたものだ。あの頃はまだ幼くて、私たちの世界は狭かったから。ルシアンは、私と将来結婚するのだとよく言ってくれていた。
「アイツって・・・まさか、セイロンさんのこと!!?」
なんて、感慨にふけっている場合ではない。というよりも、ルシアンからこんな反応が返ってくるとは思わなかった。それはリシェルも同じだったようで、少しだけ驚いたような顔を見せた。と、ともかく、と気を取り直して、改めて迫ってくる。今度は二人がかりで。
「さーぁ、白状なさい!」
「ねえフェアさん、本当なの!?」
「うー・・・」
「ほらほらぁ、さっさとはいちゃえば楽になるわよって!」
こうも二人に詰め寄られては為す術がない。
はぁ、と一つ溜息を吐いて
「・・・そうよ。」
仕方がない。だいたい、しどろもどろになっている時点でそうであると認めてしまっているようなものだ。ここは腹をくくるしかない。それに、もしかしたら相談できる相手がいたほうがいっそ気が楽かもしれない。
「わたし、セイロンが、すき。―――でも、」
この二か月、ずっと彼を見てきた。ずっと、目で追ってきた。
色々なことを聞き、色々なことを教えてもらい―――眠れない夜は眠くなるまで話に付き合ってくれた。でも、本当にそれだけ。
だって、あの日・・・私が響界種であることに思い悩んだあの日以来、彼は私に一指たりとも触れてこない。
「本当にあなたが期待しているようなことは、何もないの」
残ってくれたこと、すごくうれしかった。期限付きでも、それでもすぐにいなくなってしまうよりは、いいと思った。だって、思い出を作れるじゃない。戦いの思い出だけじゃない。お店でのこと、この町でのこと―――二人で過ごす日々のこと、もっともっと一緒に作っていけるじゃない。
それに・・・ちょっとだけ、期待してしまった。
少しでも、わたしと同じ気持ちでいてくれている?だからこそ、もしかしてこの場所を選んでくれた?少しでも、この場所に残れることを、嬉しく思ってくれている?
「・・・まぁ、セイロンさんってああ見えて、すごく真面目な人だしね」
「いや、もしかしたらアイツ、不能なんじゃ・・・あいたっ!」
なにか、鈍器のようなもので軽くはたかれる。フェアは目の前にいるし、視界に入らず自分を叩ける人なんて隣の弟くらいしかいない。
「ちょっとルシアン!なにす・・・」
ち、ちがう、と身振り手振りで彼女の弟は訴える。顔は青ざめていて、何かまずいものでも見ているかのように、一点に視線を集中させ離さない。何よその顔!と文句を言い、フェアの方をみやれば、これまたルシアンと同じような顔をしている。いや、青ざめているというよりも、真白。とりあえず彼と彼女の視線を追う、と。
「―――あ」
今、一番ここにいてはいけない人物が、そこに
「セイ・・・ロン」
「まったく・・・童がそのようなことを口にするのは、まだいささか早いのではないか」
あきれたように(実際あきれているのだが)たたまれた扇を口元へやる。まだ少々痛むのか、頭をさすっていた彼女は上目づかいで彼を睨みつけた。
「むむむ・・・子供扱いするのはやめてよね!」
ふんっ、と鼻息を荒立てて、腕組をしツンと顔を背けた。やめなよ姉さん、といつものように弟がそれをたしなめる。
「だいたいさぁ・・・」
・・・いけない。この表情と声色のリシェルは、人を小馬鹿にする時のリシェルだ。この場合、結果として良いものになったためしがない。だいたいがこのまま喧嘩へもつれこむ。もちろん、相手はセイロンなわけだから、私たちよりも数倍大人な彼は、彼女のそんな煽りをものともせず、むしろやりかえすくらいのことをしてくるだろうが。
「リシェル!」
どうせ止めても無駄だとわかりつつも、止めてみる。彼女は私の苦言を、聞こえていないフリを決め込んで続ける。
「そんぐらいであたしを殴るなんて・・・もしかして図星だったりするんじゃないのぉ?」
何が何でも、止めればよかった。私とルシアンの顔から、一気に血の気が引く。
「ちょっとリシェル、何て事言うのよ!」
「そうだよ姉さん、セイロンさんに謝りなよ!」
焦った私たちは必死に彼女へ訴える。怖くて彼の顔を見れない。
「い・や・よ!だいたい、なぁんで確かめてもいないことに謝んないといけないわけぇ!?」
なんでこういう時、彼女は強気でいられるのだろうか。何度も何度も悪い結果になったことを経験しているのだから、少しは学んでほしいと思う。その一方で、少しだけ羨ましくも思う。・・・本当に、ほんの少しだけ。
「ほう・・・」
いつもの倍・・・いや、それ以上に艶がこもった声色に、悪寒が走った。おそるおそる、そちらへ目をやる。
片手で扇をパラリと広げ、口元を隠し、薄目で見下ろす。
「ならば―――我が本当に不能かどうか、試してみるかね?」
きっと隠れた口元は片方上がっているに違いない。小馬鹿にしているに違いないのだ。それでも、あんまりにもその様子が艶やかであったものだから、そんな彼を見慣れていない私たちはまごついて、
「わわわ、わかったわよ・・・あたしが悪かったわよっ!」
やっとのことで彼女が負けを認める。と、「あっはっは、我に勝つにはまだまだ千年程早いようだな」といつもの彼に戻った。楽しそうに笑う彼をよそに、三人は深い深いため息を吐く。
(もうコイツに挑戦するのはやめとく・・・)
(うん、是非そうして・・・)
そう、小さくやりとりをして。
ふと、リシェルは思い立ったかのように、一番に顔を上げた。チラリと隣で未だ心臓を落ち着かせようと必死でいる親友を見、「あー、コホン」とわざとらしい咳払いを一つして
「セイロン、一応聞くけど・・・あたし達の話、どこから聞いてたの?」
いつものテンポに戻りつつあった心臓のリズムが、再度速めに刻みだす。
「あたしのあのセリフを聞いただけってことは、ないはずよ。」
だってそれだったら、いくらアンタでもあんな短時間であたし達に近づけるわけないでしょ、と続ける。わたしは顔を上げることができない。ただ、「姉さん、それくらいで・・・」と、(気遣ってくれているのだろう、)この話をストップさせようとする彼は止めた。何故、といった顔をする彼に、リシェルが「だってこのままもやもやした状態で過ごすのは気持ちが悪いでしょう?」と、わたしの気持をそのまま代弁してくれた。(わたしのこういうところは、ちゃんとわかっているんだから・・・)
「ふむ・・・なるほど、もっともな話だ。そなた、意外と鋭いのだな」
「うっさいわね!」
開いた扇を、今度はまた片手でパチンと閉じた。
「うむ、そなたの言う通りだ。我は丁度そなたら三人が固まっておる頃に戻ったのだよ」
と、いうことは。
わたしの告白から全て聞かれてしまっているということで・・・
心臓のリズムがさらに早まる。顔が耳まで赤く染まっていること、言われなくたってわかってる。そんな状態のわたしを、彼女なりに気遣ってくれているのだろう、彼からは見えないようにそっとわたしの前へ出た。
(だったら・・・)
飄々と顔色一つ変えずに話を続ける彼が、憎らしい。どうしてそう平気な顔をしていられるのだろう。聞いていたんでしょう、わたしの告白を。少しくらい、動揺したりだとか困ったような振る舞いだとか、してくれたっていいのに。
「じゃあ、あんた・・・」
「だがな、」
リシェルが紡ごうとしたその先・・・わたしのことについて聞こうとしたのであろうその先を、遮るように彼は話を進めた。
「実際、何も聞いてはいないのだよ。いや、聞こえなかった、がこの場合は正しいのだろうな」
「・・・へ?だってあんた、帰ってきてたって―――」
落ちついて最後まで聞きたまえ、とまくしたてるリシェルのはやる気持ちを抑える。
「そもそも、そなたらは食堂の隅・・・玄関口から一番遠く離れた場所で話をしておった。そして、我はその玄関口よりこの家へ戻ってまいった。」
「まぁ、そうよね」
ていうか、それ以外にここへの来方なんてないし、といつもの軽口。「うむ、そうだろう?」と続ける。
「先ほども言ったが玄関口からそなたらがいた場所までは遠い。通常の音量で話されては、何を話しているかまでは聞こえてこないわけだよ。」
つまり、だ。
とりあえず話し込む三人の元へ近づいて行ったところ、ようやく耳を澄ましてやっと聞こえるくらいの位置に来た時に、ルシアンとリシェルの会話が―――リシェルの失礼極まりないセリフが耳に届き、気配を隠して一気に詰め寄ったのだとういう。
「いくら我とて、遠くから話を聴き耳だてることが出来るほどの能力は持っておらんということだな」
あったなら、さぞ便利だろうよとまた笑った。そうして、テーブルの上に置いたままになっているという受け取ってきた野菜を貯蓄用の倉庫へ入れてくると、その場を去って行く。完全に扉が閉まったことを確認して、三人で一気に脱力しその場に座り込んだ。ああびっくりした、とか、冷や汗かいたわよ、だとか各々思い思いに言葉を発しながら。
「まぁ・・・ああいっているんだし、よかったんじゃない?」
「そうだね。それに、もし本当に聞いていたとしたら、あんな態度できないよ」
それはアンタだったらって話でしょと弟に突っ込みを入れつつ、まぁそれでも本人がそう言っているんだからそう受け取っておきなさいよと肩を叩かれる。そうねと答えてはみるが、ちゃんと笑えていたかどうかは自信がない。それに・・・わかっている。彼はわたしたちの話を聴き耳だてる、"必要がない"ってことを。
そして、夕刻にまた来ると彼女たちは帰って行った。いい加減そろそろ帰らないと、自分たちだけでなくポムニットさんにまで雷が落ちるから、と。バイバイまた明日と手を振る別れ際、
「この後すぐに顔洗って冷やしなさいよね」
と耳打ちされ、結局また耳まで熱が回ることとなってしまった。
・
・
・
(平常心、平常心・・・)
夜の部を追え、自分へ常にそう言い聞かせながら店の閉め作業を行う。テーブルも全部拭いてまわったし、床掃除も窓ふきもした。あとは・・・洗った皿を拭き、棚へ戻すだけ。今度は割らぬようにせねば。
セイロンは今、シャオメイに呼ばれ彼女の店へ出向いている。
(龍姫様のこと、何か進展あったのかな・・・)
龍姫様、と心の中で呟くだけでなんだか寂しい気持ちでいっぱいになる。
見つからなければいい。このままずっと、見つからなければいいのに。そうしたら、あなたはずっと私の傍にいてくれるのでしょう?例えあなたにわたしへの気持ちがなくても、わたしの気持を知っていても、それが露呈して気まずいものにならないかぎり、此処にいてくれるのでしょう?
そう思うと、ますます彼の気持ちを確かめることなどできない。この気持に彼が応えられぬ場合、義理がたい彼のことだから、わたしのことを思ってここを出ていくと言うだろう。
応えてくれる気持が、すこしでもあればいい。そうすれば、わたしにだって決めることの出来る覚悟がある。
カランカラン、と訪問者を告げる扉のベルがなった。そういえば夕刻に彼が戻ってきた時、この音が聞こえなかった。それほどまでに自分たちは切羽詰まっていたのか、あるいは―――
「おかえりなさい、セイロン」
嫌な感情を払拭すべく、明るめに、先に声をかけた。突然声をかけられたことに驚いたのか、少し表情が固くなり・・・だがすぐに和らいで、
「ああ、今戻ったぞ」
と、ほほ笑んでくれた。
「シャオメイ・・・何て?」
龍姫様は見つかったの?とは、聞けなかった。その名前を出したとたん、何かが堰を切って溢れ出しそうだったから。ずるい聞き方だよね、彼の口からそう言わせようだなんて。
「ああ・・・今日呼ばれたのは龍姫様のことではなかったのだよ」
「そうなの!?」
あ、と気づいた時には時すでに遅し。自分でも頬が緩んでいたのがわかる。しかも、嬉しそうな声。これでは、龍姫様が見つからなくてうれしいと言っているようなものではないか。「ご、ごめんね」と謝ってみる。すると、「謝るような悪いことをしたのかね?」と何故だか嬉しそうな声で問われた。わかってるくせに。
「や、だってなんか・・・龍姫様のこと見つからなければいいって思ってるみたいにとれるじゃない」
心の底からそう思ってる。一緒にいられる幸せ。一緒に過ごせる幸せ。
この時間には終わりがあること頭ではわかっているけれど・・・その時を思い浮かべただけで、胸がつぶれるんじゃないかと思うくらいぎゅううっと切なくなる。苦しい。涙が溢れてくる。
「ならば、そたはは早く龍姫様が見つかればよい・・・そう思っておるのかね?」
「!」
ああ、彼は知っていて、あえてそう聞いてきている。わたしがどういう風に答えるのかをただ聞きたくて、そのことで困らせて楽しみたくて・・・本心なんてとうの昔に気が付いているくせに。
「そんな、こと・・・」
ずるい。
わたしが、そんなこと思うなんて、ありっこないのに―――
「フェア?」
またそうやって、こういう時ばかり呼び方を変えて・・・
ひどい人だ。そうやって私は、ますますあなたから離れられなくなるというのに。
「ずる・・・い・・・」
悔しいからか、悲しいからか・・・
涙が、粒となってぼたりと零れ落ちた。
さすがにこの展開は想像していなかったらしく、口元へやっていた扇を慌てて閉じテーブルへおき、自身の着物の袖で私の涙を拭いだす。衣に焚きしめられた香が、鼻をくすぐる。
「すまぬ、すまなかった。だから、どうか泣きやんでおくれ・・・店主殿」
もともと強い香を好む人ではないから、普段傍にいる限りではその香りはとても微かで言われない限り気がつかないものだけれど、こうしてすぐ傍にあると否が応でも香ってくるもので・・・私はとても、好きだった。その香り自体も、この特権も。
「セイロンは、ずるい・・・よ」
ひどい声。
きっとこれから私が口走る内容も、ひどい。
ずるいと言われた理由が思い当たるのか、黙ったままただ涙を拭ってくれる。けれど、そんなこと意味がないとでも言うように、涙の洪水はどんどんかさを増しひどくなる一方で
「さっきの話・・・だって、本当は聞いてたくせに」
そもそも、どうしてわたし一人だけ苦しいの?こんなわたしをみて、あなたはどう思っているの?
「聞いてなくたって、気づいてるんでしょう・・・?」
止まらない、止まらない。
「フェア、落ちつけ」
出来ることならば、落ちつきたい。でも、ごめんね?無理みたい。
「言ってよ!好きじゃないって・・・わたしの気持ちなんて迷惑だって!!」
彼の胸を、両の拳でどんと叩く。力を込めたはずが、なんだか弱弱しくてそのままずるずる滑らす。
「言って、言ってよぉ・・・」
ひどく、か細く情けない声。嗚咽が止まらず、うまく話せない。言葉を発したところで、非常に醜いものだ。
こんなぐしゃぐしゃな顔、見られたくなくて・・・彼の胸に額をつけ、そのまま下を向く。彼の着物をハンカチ替わりにして。
「フェア・・・」
「そうしたら、そしたら・・・あきらめられるのに・・・!」
望みはないと思っても、あなたがそんな態度だから私は期待してしまう。あなたはするりとかわすけれど、拒まないから。だからあきらめられなかった。
いっそ、最初から拒んでもらえばよかったのだろうか。自分には使命があるのだから、間違えても恋愛感情を抱くなよと言ってもらえればよかったのだろうか。
(きっとそう言ったところで、この気持ちが絶対に生まれてこないなんてことはなかっただろうけども。)
ふと、背中が暖かくなる。それだけではない。身体がぎゅうと締め付けられる。
ああこれは・・・彼の腕だ。
この温もりも、見た目の割にはすごく力強いこの腕も、すごく久しぶり・・・。先ほどよりももっと強く、香が馨る。もっともっとその馨りが欲しくて、深く空気を吸った。そして、離さぬよう離されぬようこちらからも彼の首筋へ腕を回し、力を込めた。
「どう・・・して、何もいってくれないのよぉ・・・」
埋もれていた顔を、やっとの思いであげた。
「言って、よ・・・」
体を離し、じっとその瞳を見つめる。濡れた瞳には、少々彼の姿かたちは霞んで見えたが・・・それでも、困ったような・・・悲しい顔をしていることに間違いはなかった。
わたしだ。彼にそんな顔をさせているのは、わたし、だ。
でも、わたしだってこれまで長い長い間、ずっと苦しんできた。その原因をはっきりさせて、そして解決することができるなら・・・それはきっと、彼にとってもよりよい結果を生み出すに違いないのだ。
ふぅ、と息を吐く。顎に手をやり、視線を斜め上にずらし少し考える素振りを見せて・・・何かを決意したのか小さく頷き再び「フェア、」とこちらへ向き直った。
「・・・我は、妻を持たぬ」
ずきり、といった。体中から血の気が失せるみたい。寒気がして、足もとがふらつく。
「それは―――誰とも結婚せず一人で生きていこうと、そういうこと?」
「うむ。」
「恋人、とか、は・・・」
失恋―――けれども、誰かと幸せそうにしている彼を見るよりは、幾分かましなのかもしれないな、などと頭の中を戯言が駆け巡る。
「特に・・・そなたと出会ってからは、より一層そう思うた」
「わたし?」
何か、彼の気に障るようなことをしただろうか。たしかに、そんじょそこらにいる女性とは比べ物にならないほどお転婆で、口うるさくて、男勝りで喧嘩っ早くて・・・。だめだ、悪いところしかでてこない。
「そう・・・だよね。わたし、全然女の子らしくないし・・・」
「おう?」
「おしとやかじゃないし、男の人の後をついて行くタイプじゃないし、そもそもおしゃれじゃないし綺麗じゃないし・・・」
「フェア、そなた・・・」
確かに、将来龍人族を背負って立つ彼の隣りに在るべき女性像は、わたしのような響界種(アロザイド)であっていいはずがないではないか。彼と同じくシルターン出身で、高貴な身分の女性がたくさんいるだろう。あれ、でも先ほど"妻は持たない"って言っていた。じゃあ、後継ぎはいったいどうするのだろう。
・・・どにらにせよ、わたしには関係のないことだ。彼から、一歩遠ざかる。
「ごめんね、突然困らせるようなことして・・・。忘れてね、わたしは平気だから―――明日からは今まで通り接してくれたら嬉しいな」
もっとも、わたしの方が普通に振る舞える自信など全くないけれど。いぶかしげな顔をして、わたしを見ている?そんな空気に耐えられなくて、「じゃあまた明日・・・」と早々に自室へと逃げ込もうと、彼の脇をすり抜けて行こうと試みる。が、離したその手に今度はわたしが捕らえられた。
「はな・・・して」
払えば、振り切れるそんな強さだった。けれどそれが出来なかったのは、あんまりにもその手が温かかったから。
「―――やれやれ、そなたは少々早合点が過ぎるぞ。・・・いや、そう誤解させてしまう物言いをしたのは我の方か」
いつの間にか手に取っていた扇で、コツンと軽くわたしの頭を小突く。
お願いだから、わたしをみないでください。今日は、今夜だけは優しい言葉を投げかけないでください。明日はきっと、ぎこちなくても笑い掛けることくらいは出来るようになるはずだから―――
「フェアよ」
とてもとても、限りなく優しい声。わたしの心は、彼によってつけられた傷でいっぱいなのに、その傷はまた彼によって癒されたがっているよう。何が、"わたしは大丈夫"なんだろう。こんなにも、未練たらしくて、全然大丈夫ではないのに。
「・・・なに?」
腕で溢れそうになる(とっくの昔に溢れているけれど)涙を拭う。強がっている、わたしは。声は醜い鼻声。ちっとも勇ましくない。
顔を上げよ、と彼は言う。
(できるわけ、ないじゃないの)
むしろ、絶対に上げてやるものかと、かぶりを振って拒む。
すっと、その右手で私の頬をなでる。冷たい手・・・。今は夜、この時期昼と比べると大分温度差が生じる為寒かったのだろう。けれど、冷たい手を持つ人ほど温かい心を持つと誰かから聞いたことがある。
「・・・口にしてしまえば、それが枷となろう。」
静かな声で、諭すように・・・落とすように、語る。
「そなたとて理解しているはずだ。我はいつかはここを出ていく身。」
わかっている。嫌というほど、聞きたくないくらい理解しているつもりだ。だからといって―――
「そなたを我という鎖で繋いだまま、此処を旅立つことは出来ぬ」
(―――?)
どんなに自分がひどい顔をしているかを忘れ、うっかり顔を上げてしまう。それを見て、ひどい顔をしておるなと少し笑みを溢す。誰の、せいだと思っているのか。
「そなたは、リィンバウムの人間だ。」
頬から手を離し、そのまま優しく頭を撫でられる。
「この地で幸せになる権利が、そなたにはある。それに、我はシルターンの者にしてイスルギの次期長。それ故、時が来たらシルターンより離れること叶わなくなろう。」
そうして、今度は衣でなく自身の指で涙を払ってくれる。
「我は、そなた以外の女子を娶る気にはならん。だが、そなたをシルターンへ連れてゆくことは出来ぬ。・・・故に、妻を持つつもりはないのだよ」
(―――ああ、)
幸せになってほしい。だから、自分の為に泣かないでほしい。
あなたが流すその涙を、自分はその時拭ってやることができないから。
(そんなあなただからこそ、わたしは・・・)
そっとその冷たい右手を、この両手で包みこむ。
「・・・繋いでて」
形の良い眉が、歪んだ。
大丈夫、わたしは泣いたりなんかしない。ただ、ちょっと寂しがるだけで。
「あなたが出て行ってしまっても、やっぱりわたしはここに居るよ―――ただし、それは期限付きなの。」
頬にあるその手を両手で包みこんだまま、そこから離す。
「期限付き・・・?」
「うん、そう。期限付き。」
冷たいその手を温めてあげようと、手と手をこすり合わせる。わたしの熱を、分けてあげる。
「バカ親父と約束してるの。お母さんを連れて帰るまで、ここを守れって」
ホント、バカなの。家の全てを五歳の子供に託して家を飛び出すなんて。何を考えているのかわかったもんじゃない。ただの非常識人。どうしてお母さんがそんな人を選んで結ばれたのか、その気がしれない。むしろ、同じ世界に住む人と結ばれた方が、よっぽど幸せな暮らしを送れたに違いない。
でも、たった一つだけ
ホンの一つだけ、いいところがあるの。
「あの人、ほんっと頭にくるけど・・・約束だけは、破ったことないんだよね」
それさえなければいつだって飛び出していけるのにね、と苦笑する。もしかするとわたしよりもあの人のこと知っているかもしれない彼は、そうだな、とだけ言った。
「だから、今わたしはこの家に居なきゃいけない。でも―――」
その約束が、果たされたなら
「わたしは、あなたのところへ飛んでゆくよ」
あなたさえ、頷いてくれるなら
どこまでだって、飛んでゆけるよ
「その言葉が何を意味するか、そなたは分かっておるのかね?」
包み込まれたその手に力がこもる。
「こちらに来てしまっては、もう二度とこの地に足を踏み入れることが出来ぬのかもしれないのだぞ」
遥かなる戦乱の地、シルターン。
至竜の力を借りるか、あるいは召喚されてこの地へ来るか。どちらにせよ、彼のように何かしらの圧力がかからない限り、自分の力だけでは到底足を踏み入れることはままならなくなるだろう。
それでも
「知ってるよ。それに・・・わたしは、きっとそれ以上にここにいることが耐えられなくなると思う」
わたしはお母さんのように強くない。
響界種(アロザイド)である以上、この世界の住民と時を共に出来ないだろう。リシェルにルシアン、グラッド兄ちゃんにミントお姉ちゃん等大好きな人々と、更にこの先愛する人ができ共に皆と過ごしても・・・その人達を見送った後何年も何年も生き続けなければならない。わたしが、早くに命を落とさない限り。
「それなら、わたしはあなたの傍にいたい。」
笑われたっていい。愚か者だと罵られたっていい。
あなたさえわたしを必要だと言ってくれるなら、辛いことなどあろうはずがないのだから。
「・・・もし仮に、我が来るなと言うたなら―――そなたはどうするのかね?」
あまり考えたくない選択肢。まぁ、そう言われる可能性なんて十分にあるんだけど。
「そうね・・・そうしたら、旅に出ようかと思う」
流浪の民として、流れていく。かつてのあなたのように、あなたを思いながら、あなたの辿った道を歩いて行く。そうして、最後にあなたの元へ辿りつけたなら。
「世界を回って更に腕を磨いて―――そうして出会ったあなたに、また御馳走を作ってあげるわよ」
そしてあなたはきっと懲りもせずわたしを「店主殿」と呼んで(もうその時は店主ではなくなっているというのに)、わたしに怒られながらも「更に上達したようだな、善哉善哉」って笑ってくれるのでしょう。それは結局、我が連れて行かずとも最終的にはシルターンへ来るということではないかと苦笑する。ええそうよ、私を連れて行かなかったこと文句を言いに行ってやるんだから、と睨む。そして、笑う。
ああ、なんだか今日笑うの、久しぶりかもしれない。不安とか、ごまかしだとか、営業用だとか・・・そういった含みのない、そのままの笑顔。
「―――龍姫様を見つけ、シルターンにお送りしたら・・・今一度、ここへ訪れるとするかな」
十分温かくなった、と短く礼を言い、そっと手をわたしの両手から抜き取った。そこにあった体温がなくなったことで、今度はこちらの温度が低くなる。空虚感。たったそれだけのことなのに、おかしいね。
「セイロン?」
「おそらくその頃には、この家に温かい灯が増えているであろ。・・・それまでに心を決めておくがよいぞ」
幾数年後に、増える灯。
(それって・・・)
「やはり行かぬ、は無しだと思え。そうと決めたからには、泣き叫んでも連れて行くぞ。」
「・・・セイロンっ!!」
脇目も振らず、追い掛けた。あなただけ。そう、あなただけを。
女の子はお父さんに似た人を好きになるってよく言うけれど、それは本当だと思った。勿論、性格が似ているんじゃない。あなたは、去る人だから。いつか、わたしの元から去る人だったから。
でも、違う。わたしはもう何も出来ない五歳児じゃないの。
わたしが、動けばいい。誰かにしてもらうんじゃない、文句だけを言うんじゃない。
そうすれば、ほら・・・こうやって手に入れられるじゃない!
「ねえセイロン・・・わたし、聞いてないよ」
「む?」
「わたしのこと、本当はどう思っているのかを」
わかっているよ、さっきそれらしいこと言ってくれたもの。
だけど、わからないふりをする。だってあなた、ずるいんだから。いっつも上手に誤魔化して、いっつも重要なことは教えてくれない。
「言うまで、離してあげないから」
たまにはいいじゃない、あなたの本心ちゃんと聞かせてよ。
「店主殿、」
「聞こえなーい」
「・・・フェア」
ぐいと両手で抱きあげて、片手で足を支えられる。その際、思わず「キャアッ」と悲鳴を上げてしまい、油断しておるからだと笑われた。笑いながらそのまま耳元に口を寄せ、そうして聞こえた言葉は
"あ い し て い る"
・
・
・
「・・・そういえば、セイロン」
「む、今度は何だ」
「リシェルが言ってた、アレ・・・」
『もしかしたらアイツ、不能なんじゃ・・・』
「ほう・・・」
「い、いや、別にっ!セイロンのこと本当にそう思ってるわけじゃっ」
「そうか、もう夜であったか」
「―――はい?」
(これまたいつの間に手にしていたのか、)ばらりと片手で扇を開く。どこかで見たことがある、このシチュエーション。
「フェアよ、これから我の部屋へ来るとよいぞ」
これはもう、完全に獣を狩る目だ。
「ああ、なんなら我から出向いても・・・」
「結構です!!!」
今日は白くなったり赤くなったり青くなったり、大変だなと笑われる。誰のせいでと思ってみるものの、半分はやはり自分の責任でもあるような気がして、言いたい気持ちをぐっとこらえた。
そのうち、心配するなと頭を軽くポンと叩かれた。
「心は大人だろうと、体は我からするとまだまだ子供だ。そう焦らずとも、時はいずれやって来ようぞ」
と、頬に口づけ。
「今はこれくらいが丁度良いのではないか?」
普段はここで、子供扱いしないでと抗議するところだが今日は彼なりの心遣いに甘んじようと心から思い、そのまま今度は自分からその頬にキスを、した。
翌日早朝、リシェルが「セイロンにはたかれた!」と憤慨しながらわたしの部屋へ怒鳴り込んできたのは言うまでもない。
meg (2011年6月 4日 00:31)
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