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「貴女に"恋"の経験はありますか?」























 長い廊下を一人歩いていた。参謀総長より皇帝陛下への伝言をお預かりして。
『おそらく陛下の元へカーティス大佐もいるだろう。ついでに、というのもなんだが呼んできてくれまいか。よろしく頼む。』
 とのこと。そういえば、彼の私室へ足を向けるのは挨拶に伺ったあの日以来だ、と思い返す。

「・・・皇帝陛下、か。」

 頭をぶるり、と振った。今はこのまま、様子を伺おうと決めたばかり。余計な詮索はなしだと足を速める。詰め所から陛下の住まう宮殿へは、少し離れていた。門前を守る警備兵に一礼し、足を踏み出せば優しい風と両脇を透明な海に囲まれて、
(気持ちがいい・・・)
 漁を生業とする者にとって鴎は天敵だというが、その鳴き声は心を静めてくれる。詰め所から少し離れ、宮殿をすぐ目の前に見据えることができるその場所で足をとめて桟に寄りかかった。

 いつも見ている空だ。生まれた時から、ずっとずっと見てきた空だ。それはまるで、人のようだと。感情によって人はその表情を変えるように、空もまた天候によりその表情を変える。

 風が頬にかかる髪を揺らした。

 その感触が、あの日の彼の指先を思い出させた。無意識に右手を頬へと持っていく。




『仮面を被り無感情を冠して、常に気を張り詰めているわけか』




 ドキリ、とした。まさか彼に見破られるとは思ってみも見なかった。(カーティス大佐には仕官を始めたその日に見破られていたわけだけれど、)失礼ながら、そこまで洞察力の鋭いお方だとは思ってもみなかったのだ。けれど後々彼に纏わる出来事を調べてみれば、まぁそれは当たり前のことだったのだろうと納得せざるを得なかったわけだが

(それだけではなくて、それ以上の何かをわたしは・・・)
 何かが、胸の中にひっそりと息づいたような。けれどそれが何者なのかは、今の自分にはどうしても理解ができなかった。

 退室した後自分の中に残されていたのは、意外と幼い笑顔と艶のあるお声。だが思い出したところで何の感情も湧かない。ただ不意に落とされる。どうして彼の顔が浮かぶのだろうと不思議に思う。

 けれど、結局それ以上の感情が湧くことはまるでなかった。

(・・・ほうら、今も考えてしまっているわ)
 この気持ちを何と呼ぶのか、わたしにはわからない。ただ必要以上に心を傾倒させてはならないということはわかる。そしてこれ以上、親しくなってはいけないということも。必要最低限の関係でいい。それ以上は、いらない。


 深呼吸をひとつ

(―――そろそろ、行きましょう)

 ふと目線を右へずらせば、いつの間にか鴎が翼を休めていた。目があって、じっとこちらを見つめている。何かに心惹かれて手を伸ばしたけれど、あっという間に羽ばたいて飛んでいったしまった。

























「・・・何だと?」

 何かの冗談だろう、と聞き返す。だがその親友は無情にも(いや、この男に情など眉唾程度にしか備わっていないことは重々承知の上ではあったが)、

「いいえ、ほらご覧になってください。彼女の文字で、ちゃんと書かれているでしょう?」

 差し出された一枚の紙切れ。彼、ジェイド・カーティス(旧姓バルフォア)の名と、その日時、場所―――そして、

『陛下へよろしくお伝え下さい。いずれまた年始にて参内の折、改めてご挨拶させていただきます。』



「・・・ネフリーが、結婚・・・?」




















「きゃっ・・・」
「―――――」

 目の前まで来て、今まさにその扉を開こうとした途端突如勢いよく内側から開かれた。あまりに突然のことに、思わず声を上げてしまった。

「へ、陛下!?」

 だがその人物は構わず―――というよりも余裕のないといった表情で、その瞬間立ち止まり彼女の顔を見やるもののだが黙ったまま走り去って行った。扉を先に開けられたことよりも、そのことのほうが余程驚いた。しばらく唖然と彼が去っていった方向を見つめる。「おや、少佐ではありませんか」、と中に残された人物に声をかけられるまで。

「すみませんね、陛下が突然飛び出したりして。驚いたでしょう、怪我はありませんか?」
「あ、わたくしは大事ありません。ですが・・・」

 むしろあるならば彼の方にではないだろうか。無論身体ではなく、だが。

「ああ、あれは―――まぁ大丈夫でしょう」

 それが部屋を飛び出すきっかけとなったのだろうか、無造作に床に散らばった白い紙きれを拾いあげる。「それは?」と問うと、「招待状ですよ」というさして興味のないといった口調で返答が返ってくる。

「お知り合いがご結婚なさるのですか?」
「ええ。」
「・・・陛下に、何かご関係があるのですか・・・?」

 返答はない、ただその招待状と呼ばれた紙を見つめていた。触れてはいけないことだったのかと、慌ててと謝罪する。「おや、なにか貴女は悪いことをなさったのですか?」といつもの調子で帰ってきたので、思わず口籠ってしまった。
(ご返答がなかったから、聞いてはいけないことだったのかと・・・)
 そういえば、何か繊細で達筆な文字が少し、その右隅に書かれている。彼はただ一点そこを見つめているようだが

「・・・少佐」
「はい?」
「つかぬ事を伺うようですが、貴女に"恋"の経験はありますか?」





「―――恋、ですか?」

 ふと頭を過ぎるのは、在りし日の少年。

「ああ、深くお答えになることはありません。ただあるのならば、わたしよりも確実に貴方のほうが適役ですので」

 彼を慰めることに、だろうか。だが自分は皇帝陛下のことをほとんど存じ上げていないわけで、(その点に関しては目の前にいる彼の方が随分と適役であると思うだが)、だが自分はそれを表情に出してしまっていたのか「それは違いますよ」と主語を明確にしない言葉がかけられる。

「今ここで必要なのは、過去の繋がりではありません。その経験の有無ですよ。」

 その言葉で、この招待状が陛下にとって何を意味しているのかだいたいの予想がついた。

(そうか、この手紙の差出人は・・・)

「恥ずかしいことながら、わたしは特定の人物に対し"恋をする"といった経験がないものでして」

 だが彼の物言いは、微塵も"恥ずかしいこと"だと思っていないように見受けられた。それは寂しいことだと誰かは言うかもしれないが。

「ですから―――あのようなことも躊躇することなく言い放ち、そして彼を傷つけてしまったんでしょうねぇ」

 あのこと?と言葉にせずともまた表情に出してしまっていたのだろう、「貴女も当初に比べ随分素直になりましたねぇ」と。ついまた謝罪文句を口に出してしまう。





「"彼女が実際にここへ来た際、どんな顔で彼女を出迎えてやれば、どんな顔で"おめでとう"と声をかけてやればよいのか"、と彼はわたしにそう言ったのですよ。だから―――」




















『普段のあなたのままであなたらしく、彼女の前で振舞えば良いのでは?』

 親友の言葉が頭の中を反芻する。目の前で大きな太陽が海に沈みゆく。そういえば、あの日もそうだった。皇帝として即位するべく、雪の降りしきる街を後にする前日―――彼女と二人、海岸に立った。この抱えた想いを打ち明ける・・・はずだった。
(結局言い出せなかった俺は、とんだ臆病者だったわけだが)

 皇帝になることを選んだ時点で、彼女が自分を選ぶはずがないということはわかりきっていた。彼女はなによりも礼節を大切にする人物であったから。けれど、この気持ちを知って欲しかった。こころの何処かで、頷いてくれたらと。

(だが結局恐かったんだ、俺は・・・)

 普段が普段だけに人にそうと悟られることはないが(あの親友は規格外であるわけで)、自分は本当は臆病者だ。本当に大切なものには手を出すことができない。それが物であれ、人であれ

(拒否されることが、恐かった・・・)

 彼の言葉はまさしく正論であった。自分でもわかっている。けれど―――
(俺は・・・)





「まぁ・・・素晴らしい眺めですね・・・!」

 突如後ろからかけられた言葉に、驚き振り返れば

「こんなにも素晴らしい夕日を目にしたのはわたくし初めてです」

 そう言って、嬉しそうに微笑む彼女。「お前は・・・」と彼女には届かない微かな声で口ずさむものの、それ以上言葉にできなかった。その代わり

「・・・ここは、俺の特等席だ。ここからが一番太陽が大きく見える。まぁ、季節によってもまたその位置は若干違って来るんだがな」

 普段は青い海がその瞬間だけ橙色に染まる。そして太陽が溶け込む頃、それは光を帯びて金色に光り輝く。雪国で見たそれも、それはそれは美しいものだった。海だけでなく、真っ白な雪もまたその光に応じて色を変えるから。

 そう、そして彼女の豊かな髪色もまた、

「―――ジェイドに、聞いたか?」

 ふと困ったような顔をする。ああ、違うんだ、君を困らせたいわけじゃない。知られたところで・・・別にどうと変わるわけではない。けれど、ただなんとなく、あまり君には知られたくなかった。ざぁ、と温い風が吹く。もうすぐ夏がやってくる。雪国では唯一、気温がマイナスからプラスへと転じる季節であった。

「俺は臆病者だ。いつもこう横暴に振舞っている俺が、いざそうなると全く手が出せなくなる。」

 "おめでとう"と優しい言葉一つ、かけてあげることができないほどに。例えそうとは思っていなくても、それだけの表情を顔に塗ってでも言ってやりたい・・・安心させてやりたいのに。その態度がまた、あの日々彼女の前で見せていたものであるならば。それなのに―――




「どの自分が"自分らしい自分"なのか、わからないから―――より、混乱してしまうのですよね」

 隣、失礼致しますとゆっくり膝を折る。優雅なその動作と穏やかな、まるで太陽のようなその表情。

「きっと、今あれこれ考えても仕方がないことだと思います。どれだけ予行練習を積み重ねたり、また台詞を何度も読み返したり・・・でも結局、いざその場に立たされたなら後は自分の感情そのままに従わざるを得ないと思います。」

 だから、

 まっすぐと目を見据え、柔らかく微笑む。

「だから、陛下はその時そのままの御姿で良いのだと思います。変に塗り固めたり、難しく考えることなど必要ないんです。―――弱くったって、臆病者だって・・・いいんですよ。」

 視線を外す。それ以上彼女は何も話さなかった。慰めの言葉も、何も。ただ傍にいた。

 太陽が飲み込まれる。東の空は暗み始め、宵の明星が顔を出す。

 けれども、この間に流れる空気は、決して冷めることなどなかった。






「―――ありがとう、な」

 と、その細い肩に顔を乗せる。初めこそ驚いたように肩を強張らせた彼女であったが、

「・・・いいえ、何も・・・。わたくし、何もして差し上げておりませんわ」








慰められません、
だからせめて、
傍に居ます


細い項から馨る優しく甘い馨りに、短い時間ではあるがただこの身を委ねた。

meg (2011年6月 5日 14:08)
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