「そうか・・・そういうことだったのか」
あの時わたしに本来の名を捨て、そして自分の名を名乗るよう言ったこと。放心状態のわたしを無理矢理舟に乗せ、繋ぎとめていた綱を剣で断ち切ったこと。気がつけば舟はどんどん陸から離れていた。わたしを一人乗せて、彼女を陸に残したままで―――
「ずっとあの人の名を呼んだわ。そんなわたしに対してあの人は背を向けた。どんなに呼んだって、振り返ってくれなかった―――そして・・・」
荒々しい足音。無骨な声。わたしの声が上まで響いたのだろう、到達するまでそんなに時間がかからなかったのは。
『そこにいるのだ誰だ!』
お決まりの台詞。わたしは―――恐ろしさに、つい体を沈めた。彼女の安否が気にかかる以上に、自分が殺されるかもしれないということに恐れを抱いたのだ。
(わたしは、なんて弱いんだろう)
彼女を一人、置いてきてしまっているのに。
(今ならば水に飛び込んで泳ぎさえすれば、戻れる距離じゃない)
けれど、戻ったところでわたし達はどうなるの?
『なんだ、女か。』
『だがホドの住人には変わりない。生きているものは全て殺せとのご命令だ。』
『おい、あの舟はなんだ・・・?』
肩を強張らせる。見つかってしまう、見つかってしまう―――
『・・・ここから先へは、行かせはしない』
金属の擦れる音がした。目前にいる十六そこらの少女の抜刀に、せせら笑うキムラスカの兵達。けれど、その笑い声は次に放たれる彼女の台詞に掻き消されることとなる。
『わたしこそが、・!当主亡き今、このホドはわたしが守る―――キムラスカの犬めが、この剣の露と消えよ!!』
彼女は強い―――そのことはよく知っていた。いつも、父上に剣の手ほどきを受けている彼女を見ていた。その剣術でわたしを守ってやってくれといわれた時、『この命を賭して御守り申し上げます』と言ってくれた。
(そしてその言葉の通り、彼女の命と引き換えにわたしは生きて脱出に成功した―――)
あそこでわたしがぐずりさえしなければ、彼女だって一緒に脱出できていたはずだったのに。
「それで、今はなんでマルクトの軍人になっているんだ?キムラスカとの戦争に乗じて仇を討つつもりだったのか?」
「・・・そうね。」
真実は告げられない。彼のためにも。・・・陛下の、ためにも。
「でも、もういいの。わかったから。」
過去に縛られたままでは先にすすめないから。
ポケットから一枚のコインを取り出す。表はなんの装飾も施されていない。裏に返せば―――ホドと、・という名、その生年月日が細かく刻まれている。過去を捨てようと一度投げ捨てた。それを大佐が拾い、わたしの手に戻った。過去はいくら捨ててもなくならない、だからそれすらも愛し、未来をより見つめなさいと。(そう、言われたような気がした)(カーティス大佐はもちろん刻まれた彼女の生年月日を見ただろうが、"birth"などといったそれが何を意味するかの対する記述がなかったためか、きっとそのことにはさして気に留めなかったのだろう)
「・・・そのコインは、その時にもらったのか?」
そのかかれている文字を食い入るように見つめる。
「気がついたら、舟の中に放り込んであったの。」
「お前自身のコインはどうした」
「・・・海に沈めたわ」
その名をこれから死ぬまで名乗ろうと決めたから。・は生きている。死んだのは・。だったら、コインは不要だ。
「だから、あなたの婚約者である・はもう死んだの。あなたの目の前にいるのは、マルクト軍人として生きる・。ただ、それだけよ。」
「・・・そっか。」
と、残念そうに微笑むから。「どうしたの?」と聞けば、
「俺はお前のこと好きだったから」
と言う。胸が、痛んだ。あの日々の淡い想いが今再び蘇る。けれど、それは・・・確かにただの、過去の残物でしかなかった。
「わたしも、貴方のこと好きだったわ」
幼いなりに一生懸命だった。恋に年齢は関係なかった。優しい彼が大好きだった。いつも一緒にいた。彼に名を呼ばれ、頼りにされる彼女に嫉妬したことすらあった。
(でも)
今は、もう。
「あの頃には、やっぱり・・・戻れないの」
そういって、とても愛しいという表情で空を見つめて
(・・・俺は、今でも好きなんだよ?)
女性恐怖症は、君の前では効力を成さないほどに。
「先ほどは、失礼致しました」
「・・・構わん」
夕暮れ、オレンジ色の光が差し込む彼の部屋。太陽の色を持つ彼の髪はそれらを反射し、さらに深いゴールドを醸し出す。
(やはり・・・お怒りになっているのだろうか・・・)
だって、先ほどから背を向けてずっと窓の外を眺めている。こちらを向いてくださらない。
(当たり前・・・か。結局、わたしは陛下にまだ隠し事をしてしまっていたから・・・)
あの時、一緒に露呈してしまっていればよかったのかもしれない。ホド出身であると共に、縁の者であると。本当の名前は別にあると。
(でも、そうしなかったのは・・・)
もちろん傍にいられなくなるといった恐怖もあった。しかしそれ以上に
(わたしは、彼女をこれ以上裏切るわけには・・・)
そんなことを考えて、いやそれは違うなと頭を振る。彼女ならきっと、今の自分を決して責めたりなどしない。むしろ陛下を亡き者とし仇を取ろうと躍起になり剣の修行に明け暮れていたあの頃の自分こそを、彼女ならばきっと叱り付けただろう。
「陛下・・・わたくし、は・・・」
「他にこのマルクトは、お前に対しどのような仕打ちをした」
え?と彼を見る。夕焼けの色そのままに染め上げられる彼の後姿は、なんだかいつもと違ってとても小さく小さく弱いものに見えた。
(ああ、もしかしてこの御方は・・・)
自分の誠の生い立ちを知り、またもご自身を責めてしまわれているのか。
「俺は・・・何をすればいい。どうしてやればいい。・・・お前を、ガイラルディアの元へ帰したほうがいいのか・・・?」
ようやく、こちらを振り返る。夕日を背に浴びて、逆光だがその表情だけは悲しいくらいよく見える。
「もう一度聞いていいか?お前は・・・どうして俺の傍にいる」
何度でも。
何度でも、貴方が望むならば何度でも
「貴方様を、あらゆる危険、災厄から御守りしたいのです。義務感からではありません、私が・・・そうしたいと願うのです。お傍にいたいのです。」
それで貴方が安心すると言うならば。そんな表情が消えて無くなるならば
「どうして・・・そこまで言ってくれる・・・?俺はお前に、何もしてやれていないのに・・・」
むしろ、傷つけてばかりなのに―――
ああ、そんなに悲しい表情をなさらないで。
その顔に、頬に、手を差し伸べる。包み込んで、愛おしい。愛しいから、離さない。
「わたくしを、お傍に・・・この先もずっと、置いてください。それだけで、わたくしは癒されます」
愛してください
なんて、言わないから―――
どうか、ただ貴方のお傍にわたしをおいてください
「―――」
彼の手がのび、頭の後ろから引き寄せられ、そしてためらいがちに、
口唇に一つ、控えめにただ啄ばむ様なキスが落とされ
そのまま抱きすくめられた。
「・・・」
そう呼ぶことを許してくれと、叫ぶようにただひたすら繰り返される。
後ろからかかる夕日はとても暖かく、二人の溶け合う影をただただ長く伸ばした。
引き摺る過去が
足に絡まる
足に絡まる
(ただただ繰り返しましょう。貴方が、この想いに気がついてくれるまで)
meg (2011年6月22日 16:46)
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Cherish