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「母似香、こっち!」

 その声を頼りに、危機一髪、部室の中へと滑り込む。一呼吸置いて、扉の外で無数の足音が慌ただしく通り過ぎていった。「また逃げられた!」そんな金切り声のオマケ付き。しばらく息を潜めて、完全に足音が聞こえなくなったことを確認すると、途端に肩から力が抜けて、脱力した。

「た、助かったぁ~~~......。」
「ここに逃げ込む時、よく見られなかったわね。こっちから出ていく覚悟も決めてたけど。」
「いやーほんっと、間一髪だったよ。毎回毎回ありがとう、理緒!」

 そう言うと、彼女は肩をすくめ、両手を上げる仕草をして、

「はがくれ特製一杯、水曜の部活後にでもね。」
「し、しっかりしていらっしゃる......って、水曜?」

 カレンダーを見やれば、確かに今日は10月26日、月曜日、部活動が行われる日のはずだ。だったら今日の部活のあと、でもいいはず。そう視線を向けてみれば、こちらが何かを言うよりも早く、

「今日は、母似香は部活出られないんでしょ?」

 と、意味深な笑顔を向け、しっしっ、と手で払われる。やはり、夏合宿で胸に秘めたる想いを口にするんじゃなかったかもしれない。そんなことを思いながらも、そのご好意に感謝しつつ、そうっと部室の扉を開けた。





 先輩グループはなんとか撒いたものの、ここから実習室前廊下までの道のりがまた、やっかいである。恐らく先ほどとは別のグループが、ボクシング部用の部室前を占拠しているに違いない。いやむしろ、先ほどのグループが舞い戻ってきており、待ち伏せしている可能性だってある。彼女たちは、大抵彼がここにいることを、知っているのだ。別にわたしを捕まえるといった要件でなくても、来ていることだろう。

 う~~ん、とひとしきり唸る。誰か、たとえば鳥海先生だとか美鶴先輩だとか、要は彼女達が敵いようもない相手と共にいられれば、いいんだけれども。残念ながら今は職員会議の時間だし、生徒会の活動日でもある。

「............ちゃん。」

 もし万が一、いつもの場所に先輩がいなかったとしたら、これはこれで困る。その場で待つには危険すぎるし、かといってすれ違っても困る。メールを入れようにも、その......先輩とわたしはそういう関係ではないし、気軽にメールで"今日空いてます?"とか言ってしまえるほどの勇気が自分にはない。

「......香ちゃん。」

 あくまで偶然、偶然を装って、「丁度暇なんで、海牛にでも行きませんか?」とか、出走する馬の目の前に人参をぶら下げるような要領で、好物を持って付き合ってもらう。「どっか行きませんか?」で乗ってくれるとは、到底思えない。いや、もちろん本当は、その程度で付き合ってもらえるくらいの仲には進展したい。ゆかりだとか、順平だとか、理緒だとか、彼女たちを誘うくらい気楽に......。あ、でもそういえば、最近なんだか避けられているんだった。それ以前の問題か。

「ねぇ、母似香ちゃんたら。」

 そう、どうして避けられているのか、全く見当がつかない。ええっと、そう思うようになったのはいつからだった?"はがくれ"で、彼がわたしがリーダーであることが心配だと口にした時からだから、ここ一か月くらい?......先輩、ああは言ってくれたけど、わたし、やっぱりリーダーに向いていないのかな。

「もーにーかーちゃんっ。」
「ひゃあう!?」

 突然、背中の溝、丁度おへその真裏当たりを一突きされ、びくりと肩を大きく揺らし、自分でも間抜けだと思えるくらい、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「やだ、すごい声。」
「ちょ、さ、沙織......?!」

 勢いよく、そちらの方へ振り返れば、黒目がちの瞳を細めて柔らかく微笑む少女。反対側の腕には、保健委員会用のものだろうか、何十枚もあるだろう書類の束を抱えている。全く悪気のない声色で、「ずっと呼びかけているのに、全然気が付いてくれないんだもの。」と、そう綺麗に微笑まれると、もうそれ以上抗議をする気も起きなくなる。

「ご、ごめん、ちょっと考え事をしてて......。」
「ずいぶん長い考え事だったのね。......もしかして、何か悩んでいるの?」
「え?あ、いや、まぁ、なんというか、しょーもないことなんだけどさ......。」


「こんなとこにいたんだ、斗南サン。」


 やばい、と思った時には、時すでに遅し。振り返らなくてもわかる、背中に感じる禍々しいオーラ。無論、彼女達が怖いわけでは決してない。

「よくもさっきは、逃げてくれたわね。」
「この間の話の、続きしたいんだけど、ついてきてくんない?」

 この間、というのは、いつぞやかの日曜日、わたしと先輩が一緒にへワックへ来ているのを目撃した、ということに対する嫉妬というか羨望というか文句というか。ゆかりや順平、果てには先ほどの理緒や結子の助けを借りて、ここまでかわしてきたものの、ここいらが限界だろうか。パチパチと不思議そうな顔をして瞬きをする彼女に「ゴメン、また今度話すね」と小声で断り、観念して彼女たちの方へ顔を向ける。ああ、今日も先輩と会えない。いや、そもそもここ数日あからさまに避けられている今、会って一緒に帰ってくれるかは、結構微妙なところではあったんだけど。

(でも、今日こそちゃんと話そうって、思ってたんだけどなぁ。)

 ため息を一つ吐き出して、「じゃ、ここじゃなんなんで......」と場所の変更を願い出ようとした、その時だった。

「――――すみません、先輩方。彼女とのお話、今じゃないといけませんか?」

 聞き間違うはずがない、それは彼女の声。

「何よ、アンタ。」
「私も斗南さんに、大切な用事があって。できれば、日を改めていただければ嬉しいんですけど。」

 怯むことなく、まっすぐ凛とした声色で穏やかに、続ける彼女。「ね?」と微笑んで、先ほどわたしの背筋を突いた手を、わたしの左腕に絡ませてくる。

「なに言ってんのよ、こっちだってその子に大切な話が......!」
「アッコ待って!こいつ......。」

 食って掛かろうとした彼女を、傍にいたもうひとりの女子生徒が引っ張り、小声でこそこそと耳打ちをする。はっきりとは聞こえてこないけれど、「長谷川」、「年上」、「カラオケ」、「クラスメイトの彼氏」、「週刊誌」、果てには「死んだ」といった単語が、そこだけハイライトされているかのように耳に入ってくる。無意識に眉間に皺がより、食って掛かろうと口を開きかけた途端、絡まれていた左腕を引かれた。

「そういうことですから、じゃあ、わたしと彼女はこれで失礼しますね。」

 ごきげんよう、と頭を下げ、そのまま腕を引かれて実習室廊下へ続く渡り廊下の方へ歩いていく。「見逃すのは今日だけだからね!」という上級生の声が、遠くの方から聞こえた気がした。





「ちょ、ちょっと沙織!」
「............。」
「沙織、沙織ったら!!」
「............あっ、ごめんね。困ってるみたいだったから、嘘ついて連れてきちゃった。よかったかな?」

 絡められたままだった左腕を、ようやく解放される。もちろん、なぜこういうことをしたのか、という理由を聞きたかったこともある。けれど、察しの良い彼女のことだから、こうしてくれたのだろうという予想くらい簡単についた。だから、そうじゃない。そうじゃ、なくて。

「ううん、正直すごく助かった。ありがとう。」
「ふふ、ならよかった。」

 書類の束を抱え直し、目を細めて綺麗に微笑む。だから、ちがう。

「――――ぜんっぜん、よくない!!」

 勢いよくその細い肩を掴んだ。その拍子に、彼女が持っていた書類の束が滑り落ち、ザァァァアっと、音を立てて周囲の床全体を覆うように散らばる。周りを通りかかる生徒たちが、驚いたかのようにこちらを見る。彼女の瞳も、皿のように見開いてこちらを見ていた。

「わたし無理、耐えられない!沙織のこと全然よく知らない人が、沙織のことそういう風に言える神経が、もう許せない!!」
「も、母似香ちゃん......。」
「もう、今すぐ戻ってあの人達を殴りたい!いや、あの人たちだけじゃない、沙織のことそういう目で見てる人みんなに、スピーカーでもなんでも持ってよく聞こえるように、沙織がどんな人なのかを、ぶちまけてやりたい!!」

 一気に捲し立てたおかげで、ゼィ、ゼイと肩で息をし、間抜けな咳も出てくる。周囲の生徒は一瞬立ち止まり、けれどそそくさと、何事もなかったかのようにその場を通り過ぎ、少し離れたところでこそこそと話をする。だから、そういうのが。癪に障るといっているのが、わからないのだろうか。触らぬ神に祟りなしって、なにそれ。触らないと、わからないじゃない。

「......ありがとう、母似香ちゃん。でも、本当、あなたがわかってくれている、そう思ってくれているだけで、いいの。」
「けど!」
「ううん、違うね。そう、もしもあなたが傍にいなかったら、わたしはダメになっていたかもしれない。」

 腫れものを触るかのように自分を扱う、クラスメイト。その立場を自分から変えようとしなかった自分。あんなことになって、もしも彼女が傍にいなかったら。クラス内で更に溝が深まっている今、そもそも私はこの場に立っていられるだろうか。

 肩を力強く掴む彼女の手首に、そっとこの手を重ねる。途端に力は緩められ、容易にそこから外すことができた。そのまま彼女の手のひらで、自分の頬を包み込む。暖かい、手のひら。

「私のこと、きちんとわかってくれている人がいる。それだけで......人は、立っていられるものなのね。」

 さらさらと指通りのよさそうな、少し冷たい、女の子らしい白い頬。わたしのそれほど日焼けしていない手も、おかげで少し色濃く見える。鳥籠に閉じ込められた品の良いフランス人形は、ここから出たいと祈っている。けれど、その柵を壊す力が彼女にはない。だから鍵を探すのだけど、その鍵がどうしても見つからなくて、諦めてしまった。

 鍵は、あるのだ。きっと、彼女の中に。何かきっかけがあれば、きっと呼び出せる。

「――――な、なんだこれは?」

 聞き覚えのある、声。そっと、彼女が手を離すのと同時に、声がした方に顔を向ける。それは、そもそもの目的だった人物。先ほど大声を上げてしまったため、こちらまで様子を見に来てくれたのだろうか。

 床に散らばる無数の紙を確認するなり、何を言われたわけでもないのに、腰を屈めて拾い始める。その姿を見て、慌ててこちらも同じように拾い集めはじめた。彼女も、静かに、そして嬉しそうに拾っていく。気が付けば、渡り廊下に居るのはわたし達三人のみ。他の人々は、それぞれの出入り口から様子を伺っている。

「......こっちはこれで全部だ。」
「こ、こっちもこれで終わり!そっちは?」
「ここも、これで全部よ。ありがとう、母似香ちゃん。ありがとうございます、先輩。」

 ひぃふぅみ、と資料の枚数を数え、数が合っていることを確認する。いや、そもそも元はと言えば、わたしのせいだから、と口ごもる。「一体何をしていたんだ」、と呆れたような顔で問われるも、うまく説明できる自信はない。わたしが説明すべきでは、ない。

「じゃあ、わたしは江戸川先生にこれを渡さないといけないので、ここで失礼しますね。」
「ん?あ、ああ......。」
「先輩、母似香ちゃんが先輩にご用があるみたいなので、聞いてあげてもらえます?」

 ね、と微笑んでくる。ああ、もう、全てお見通しというわけか。さすがは沙織。じゃ、なくて!

「......なら丁度良かった、俺も斗南に用があるんだ。」
「だって、母似香ちゃん。よかったね。」

 じゃあね、と手を振り、先輩に会釈をして、ゆっくりと歩き出す。入り口付近にいる生徒達が、彼女を避けるように道を開ける。

「さ、沙織!!」

 あわてて彼女に声を投げる。それでも彼女は歩みを止めない、振り返らない。あくまで、必要ないと言い張る気か。そんなことは、させない。せめて誤解を解くくらいさせてもらわないと、こっちの気が済まない。

「明日っ!......明日、保健委員行くから!!その時ハッキリさせるんだからね!?」



ブルー・バード

あなたは私にとって、幸せの青い鳥そのもの。



「それは......明日の委員会が、楽しみね。」

 周囲には聞こえない、辛うじて自分の耳に届くくらいの音量で呟き、くすり、と笑みがこぼれた。








S.E.E.Sメンバー以外のコミュでは、隠者コミュが一番印象深かった。沙織ちゃんが大好きすぎる。
meg (2012年5月11日 10:13)

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