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「............斗南?」

 あれから、どれだけ長い時間こうしてぼんやり立っていたのだろう。穏やかで多少温もりもあった風が、いつの間にか冷たい刃となって頬に突き刺さってくる。訝しげに名前を呼ぶ彼の声に、ようやく自分を取り戻した。

「あれ、真田......先輩?えと、今日って部活じゃあ......。」
「部活なんてとっくに終わった時間だ。時計を見てみろ。」

 言われた通り、左手首に巻かれた、かの人にもらった細めの腕時計を覗き込む。現在16時50分。冬時間となった今、部活活動可能時刻は短縮され、ほぼほぼもう校内に人は残っていないような時間帯だ。

「こんな時間になるまで、そこで呆けていたのか?鼻が真っ赤だぞ。」

 普段上着を着ずに肩に背負っている人が、彼にとってもこの風は冷たかったのだろう、今日はきちんと着こなしている。ここに来るまでに、一体何人の女子生徒を魅了して来たのだろうか。ついそう思ってしまうくらい、整いすぎているその顔立ち、立ち姿を、さらに際立たせている。

 と、言われた途端に鼻がむずがゆくなり、「へっくしゅん」、とくしゃみを一つ。

「......ほら、言わんこっちゃない。」

 やれやれ、とため息をつかれ、何やら鞄の中を探り出す。彼の大きな手に掴まれて出てきたのは、長い長い赤のマフラー。巻いておけ、と、これでもかと言わんばかりにぐるぐる巻きにされる。鼻先を、彼の匂いがくすぐる。思わず、すん、と音を立てて、鼻で息を吸い込んだ。途端に、じんわりと目頭が熱くなる。

「お、おい......どうした?」

 あわててマフラーの裾をもって、顔を隠す。ダメだ、これは危険だ。この匂いが、わたしをすこぶる弱くする。でもこれ以外に、この顔を隠せるものなんて存在せず。

「おい、母似香......。」

 二人きりの時以外は呼ばないと、彼が宣言したはずのその名前を、彼自身が口にする。マフラーと頬の隙間に手を入れられて、無理矢理顔にかかるそれを下される。驚いたような顔をした、ということは、相当ぐしゃぐしゃな顔をしていたのだろう。やっぱりそのまま隠しておけ、そう言われて、そのまま右手を引かれて足早に歩き始めた。




 寮に戻るまでの道のりを、すべて他人の目からかばわれるようにして帰った。(少し、先輩は過保護な気がする。)そうっと寮の扉を開けて、ラウンジに人がいないことを確認すると、中に入ってこれまた一気に階段まで駆け抜ける。導かれたのはそのまま二階、彼の部屋だった。扉を閉めて、鍵をかける。

「もう、いいぞ。」

 ここへ辿りつくまでの数十分、ずっとマフラーで顔を隠していたわたしの顔は、すっかり火照りかえっていて真っ赤だったように思う。目頭が熱いのも、そのまんま。辛うじて、涙は溢れていない。

「一体どうしたんだ。何があったんだ、急に......。」

 ベッドに鞄と上着を放り投げ、好きなところに座るよう勧められる。部屋の隅にある、水やアイソトニック飲料ばかりが入った小さな冷蔵庫から、一つだけ鮮やかなパッケージの500ミリリットルパックを取り出し、机の上に置いてくれた。以前わたしが部屋に来た時に、飲んでいた物を覚えていたのだろう。買っておいてくれたんだと思うと、もう、ああだめ、こんなに優しくされると、止まらなくなる。

「沙織、が」
「沙織?......もしかして、校内放送の子か?」

 ああそうか、あの放送は全校内に流れている。名前もバッチリ名乗っていたし、先輩が知っていたって不思議じゃない。

「あの時、床に紙をばら撒いていた子だろう?」

 そのコメントには、驚いた。驚きすぎて、ぱっと顔を先輩へ向ける。たしかに、わたしは何度か彼女の名前を口走った。けれど、お世辞にも物覚えがいいとは言えない先輩が、それだけのやりとりで、彼女の名前を顔を一致させたことには驚きだった。

「......実は今日、昼休みに購買近くで、彼女に声を掛けられたんだ。」


『こんにちは、真田先輩。』


「沙織に?」
「ああ。俺に頼みたいことがある、と言ってな。」


『母似香ちゃんのこと、ちゃんと見ていてあげてくださいね。』

 瞳を細めて浮かべる笑顔には、絶対の強制力。この自分にしては珍しく、背筋が凍るような思い。

『......当たり前だ、どうしてそんなことを俺に言うんだ。』

 思わず口走ってしまって、少し焦る。そういえば、彼女には自分から、付き合っていることを隠そうと言わなかったか?いや、だがしかし、彼女がこう言っているということは、もう知っているということなのか。

『あら、じゃあ安心ね。』
『お、おい......。』

 もう用件は終わりだ、とでも言うように、さっさと背を向けて歩き出そうとする彼女を声で引き止める。生憎、こちらに用件が出来てしまった以上、そうやすやすと行かせるわけにはいかない。

 ザワザワと、周囲の喧騒が一層激しくなる。どうして急に、と見回せば、どうやら皆の視線の先には彼女。「二年の、あの長谷川......」、「例の、校内放送の......」といった声が、耳に入ってくる。ああ、そうか。彼女だったか。そういえば、アイツも彼女に向かって"沙織"と呼びかけていた。

 とすれば、きっとあの放送の裏には彼女が居たに違いない、と、妙に合点がいった。

『......私は、もうあの子の傍にいられないから。』

 傍にいられない。そう、彼女は旅立ってしまった。このデータカードを自分に託して、自分の傍から離れて行った。

『あ、私から離れたいと思って離れるわけじゃないのよ?ふふ、だって私、母似香ちゃんのこと、大好きだもの。』
『じゃあ、何故、』

 その疑問には、答えなかった。答えようと、しなかった。代わりにまた瞳を細め、あの会釈をして、

『お元気で――――』


「沙織、今日づけて転校だって......遠くの、全寮制の高校に行くんだって。」
「............。」
「もう校門のすぐそばに、車が迎えに来ているから、このまま向かうんだって......。」

 ということは、彼女と別れてからずっと、あの場に立ち尽くしていたのか。

「二度と、会えないわけじゃない。でも、なんでかもう、会えない気がして......。ううん、違う、会えないことがきっと不安なんじゃなくて、その、」
「落ち着け。」

 ぎゅっと、両掌でわたしの顔を包み込んでくる。暖かい、大きな、骨ばった手のひら。ああそういえば、今日は黒の皮手袋、していないんですね。

「深呼吸を、しろ。時間がかかっていい、泣いたって構わない。」

 そう言って、額に額をこすり合わせてくる。目の前には、色素の薄い、長い睫毛。

「......待って、いるから。」

 暖かい、吐息。途端に、何かが弾けたかのように、爆発する。そのまま両手で彼の胸に飛び込んで、嗚咽をまき散らし、真っ赤なベストに涙を滲ませていく。

 悲しい、だとか、寂しい、だとか、そういう感情よりも先に、喪失感が降って沸いたこの心が、憎らしくて仕方がないのだ。沙織に学校で会えない。保健室で他愛もないおしゃべりができない。それよりも、もっと別の何かが失われたということが、ひどく不安で仕方がない。そして、その正体が分かっている自分が嫌で仕方がない。

「――――いです。」
「......うん?」
「嫌いなんです。」

 ぎゅ、と、回す腕に力がこもる。

「嫌い、大嫌い!」

 細切れに、飛び出す悲鳴。

「......わたし、が。」

 心の中は、もうそれこそ色んなものが。憤怒、憎悪、嫉妬、様々なものが渦巻いて、そして、一欠けらの愛情。

「こんなわたしが、嫌いで、嫌いで、もう、どうしようもなく、て」
「好きだ。」

 まるで、そんな闇を切り裂くかのように、投じられた言葉。まさに晴天の霹靂。(いや、どちらかというと、わたしの心の中は嵐のように荒立っていたけれど。)

「俺は、好きだ。」

 ゆっくりと、繰り返される。じわじわと染み渡り、汚いものがどんどん浄化されていくような、そんな感覚。ああ、温かい。どうしてここは、そんなに温かいんだろう。

「............落ち着いたか?」

 言葉の代わりに、彼の胸の中で、コクリと顔を縦に振った。ポンポン、と、優しく背中を撫でるように叩いてくれる。

「わたし、すごく都合よく沙織を使ってたんです。」

 溢れ出る自己嫌悪の塊。こんなに大きく汚いものを、心という小さな器の中に、よくしまっておけたものだと我ながら感心する。

「悲しい時とか、もやもやした時とか、本当そんな時ばっかり、保健室行って。」

 それでもいつだって彼女は、嬉しそうに出迎えてくれた。じっくり話を聞いてくれて、時には涙も流させてくれて。答えをくれるでもない、道を指し示すでもない、ただただ、じっと耳を傾けてくれる。

「わたしは、沙織のことよくわかってる。沙織はわたしを頼りにしてくれている。そんな優越感に浸っていたかったんです。」

 いつぞやかの、貸したノートを無くされてしまったりだとか、濡れ衣を着せられた時だとか。デタラメな記事を書かれたりだとか、それで先生にイチャモンつけられた時だとか。その都度怒りに震えたわたし自身に、満足さえしていたような気すらする。

「それ、は......」
「そう、汚いんです。わたし、もう本当、狡くて、汚くて、醜くて......沙織や先輩が、思っているような女の子じゃ、ぜんっぜん......!」

 その後の台詞を遮るかのように、ガッとその手で顎を上向きさせられたかと思えば、その薄い唇で唇を塞がれる。深く、深く長く口づけられ、ようやく離された時には、もうすっかりその先に続く言葉を失ってしまっていた。

「俺、は」

 彼としても少し、気恥ずかしいのか、それとも長かった口づけの後で、息が苦しいだけなのか、肩で息をしながら少し濡れた唇を手で拭い、

「そんなお前が、すごく好きだ。それはきっと、長谷川も同じだと思う。」

 ぐいと、今度は彼から抱き寄せられる。

「少なくとも、人間らしい泥臭さも全て見せてくれるお前が、一番好きだ。」


『私の前では、気を張らないでいいのよ?私も、そうさせてもらうから。』


「そして、そんな姿を滅多に人に見せないお前が、俺に見せてくれるということが......とんでもなく、嬉しいんだ。」


『ね、だからここでは、いくらでも泣いていいのよ?』


 一度落ち着いたはずの涙が、再び溢れ出す。どうして、どうしてだろう。どうしてこの人たちは、こんなに優しくしてくれるんだろう。

「――わたしも、すきです。」

 体を離して、両手で交互に瞼をこすりながら、用意してくれたパックの口を開けて、短めのストローを中に差し込む。

「先輩と沙織が、すごく、すごく好きです......。」

 甘くて、渋くて、ほんの少しほろ苦い。カラカラの喉に、深く染み込んでいく。彼女が内緒と言って、飲食禁止の保健室で、よく一緒に飲んだ味だ。最初は何とも思ってなかった。でも、彼女がこればっかり飲むから、気が付いたらわたしもこればかり選ぶようになっていた。

「すごく......大好き、です。」



FRAGILE

壊れやすいこの心を、
いつだってあなたは繋ぎとめてくれた。



 そう言ってみたら、「じゃあ、自分自身が嫌いって言う私たちも、お互いのこと大好きだったら、そのうち自分自身も大好きになってしまうかもね」と、綺麗に微笑む彼女を思い出す。

 確かに今、先輩とあなたのことを好きだと思うわたしのことは、とても好きだと思った。








多分、沙織ちゃんは無条件で女主ちゃんの涙を引き出せるこなんじゃないかなと。女主ちゃんが抱える重たい闇を、深く聞くまでもなく、当たり前のように受け止めてくれた子な気がする。大好き。
meg (2012年5月11日 10:16)

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