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 霧のような雨の降る、まだ仄暗い明け方のことだった。
 パブでの深夜アルバイトを終え、疲れた体を引きずって家路につく俺の目の前で、揺ら揺らと覚束ない足取りで、傘を差ささぬまま歩く黒いスーツの少女がいた。
(酔っている、のか……?)
 まだ酒が許されるような年齢ではなさそうだが。あの調子では、足を縺れさせて転ぶのも時間の問題だろう。と思った瞬間、案の定ドサリ、と倒れ込むように彼女は転んだ。
 慌てたのはしばらくしてからだった。すぐに立ち上がるだろうと思いきや、一向にその体が動かないのだ。
「お、おい……!」
 急ぎ彼女の元へ駆け寄り、傘を地面に置いてその体を助け起こす。スーツと手袋の隙間から見える手首はやけに細く、少し力を入れただけで折れてしまいそうだった。
 状態を確認しようと、無礼と思いつつも少女の顔を覗き込む。幼いながらも非常に整った顔立ちの、美しい少女だった。
 瞼はしっかりと閉じられたまま、一向に開く気配がない。慌てて彼女の口元に手を当てる。……大丈夫、随分とか細いが、息はある。
(血色が悪いな……)
 その肌の色はまるで月のように白く、血の気がない。酒の匂いはしないから、貧血かなにかか。
「おい、しっかりしろ!」
 意識の回復を優先しようと強めに声をかける。体は、ぼんやりとした知識だが、この場合揺らさない方がいいのだろうか。
「おい!」
 これで目覚めなかったら、急ぎ急患で病院に駆け込むべきだろう。ここいらに病院などあっただろうか。いや、パブにはまだクー殿かアーチャー殿がいるはずだ。彼らに助けを求めた方がいいかもしれない。
 そんなことを思い巡らせたその時。
「……ぅ、」
 か細い声がその唇から洩れ、うっすらと瞼が開かれた。
 思わず息を飲む。その奥にある瞳はまるで翡翠のよう、今にも消え入りそうな光を必死に煌めかせ、それはそれは非常に美しかった。
「ち……」
「あ、え?」
 彼女の発した一言に、慌てて我に返る。彼女の双眸は、俺の顔ではなくどこか違うところを見つめていた。
「ち、が……」
 "ち"? "ち"、とは一体。
「ち……」
 そう言って彼女はゆるゆると右手を上げ、彼女の体を支えていない方の右手を取った。
 よくよく見ると、なるほど、人差し指の先から極僅かではあるが、確かに"血"が滴り落ちていた。そういえば今日、アルバイト中にワイングラスを一つ割ったのであった。恐らくはその時に出来た傷が、たまたま何らかの拍子で開いてしまったのだろう。
「これくらい大丈夫だ、そんなことよりお前のほう、が……っ!?」
 その後彼女のとった行動に、目を見開く。
 手に取ったこの右手を彼女はそのまま自身の顔近くまで導き、唇を寄せ、舌でぺろり、と舐めとったのだ。
「…………おい、しい……」
 さらに驚いたことに、彼女が舌を離すと、その箇所は見事綺麗に傷がなくなっていた。
 何だ、これは。これは一体どういうことだ。
「でも、まだ……足りない」
 すると彼女はゆっくりと顔を上げ、虚ろな双眸で俺を見る。
 金糸のように細く美しい髪。月のように白く滑らかな肌。何者をも魅了してやまない、美しい顔、姿かたち。
(ああ、もしかしたら彼女は……)
 肩に、顎に手が伸ばされる。彼女の顔が、唇が項に寄せられ、そして――――。
『吸血鬼には、気をつけろ』
 頭の中で、クー殿の声が響く。それは、この街では忌み嫌われ、また恐怖の最たる象徴。
(彼女が、"そう"なのかもしれないな……)
 俺もまた例に漏れず、その存在を恐怖と捉えてきたはずなのだが。
 彼女にされるがまま、俺は瞼を閉じた。ピリリっと体中に電流が走る。焼け付く様に痛んだのはそこではなく、何故か右手の甲だった。
 とにかく俺は、驚くほど冷静に、また心穏やかに――――その牙を受け入れたのだった。

 *

 その後再び意識を手放した彼女を放っておけず、結局俺の家へと連れ帰った。客人をベッドに寝かせ、俺はソファに横になる。なに、誰かが来ればいつもこうなのだ、特に支障はない。
 そして、目が覚めたのは翌日(といっても明け方の出来事だから、当日中の話なのだが)の正午過ぎ。
 彼女の顔に、カーテンの隙間から日が差し込んでいるのを確認するや否や、慌てて隙間なくそれを閉め切った。たしか、日の光を浴びると"それ"は灰となり消滅してしまう、と聞き及んでいたのだが……。
「ん……」
 物音に反応したのか、彼女がけだるそうにその体を大きく揺すった。しまった、起こしてしまったか、と申し訳ない思いに丁度かられたところで、彼女はその瞼を開いた。
「目が覚めたか」
「……?」
 ゆっくりと上体を起こし、ぐるり、と部屋を見回す。
「ここは……」
「俺の部屋だ。覚えているか? お前は昨日……といっても、今朝だな。街の真ん中で、お前は倒れたのだ」
「倒れた……?」
「ああ。それを俺が見つけ、ここへ連れ帰ってきた次第だ」
 女性を見知らぬ男の部屋に連れ込むようなことをして済まないが、どうか見逃してくれ。俺は、弱っている者を捨ておけん性質なのだ、と肩を竦めてみせる。
 だが彼女はさしてそれを気にする様子もなく、むしろ別のことに気がいっているようで。
「私は……何故存在している……」
「ん?」
「だって、私は……。…………っ!」
 彼女の傍に行こうと、ベッドサイドまで近づいた俺の右手を断りなく突如引っ掴み、引き寄せた。彼女に倒れ掛かりそうになるところを、すんでのところで左手をつき踏みとどまる。彼女はそんな俺にお構いなしに、この右手の甲を食い入るように見つめた。
「お、おい待て……っ」
「……これは!」
 言われて俺も、彼女に掴まれたままとなっている自身の右手に視線をやった。
 そこにはこれまでに見た覚えのない、何とも形容しがたい形の痣……と呼んでいいものか、とにかく何かがそこには浮かんでいた。
「あ、ああ、目が覚めたらもうそこにあったのだ。昨日、床に入った時点ではなかったように思うがな」
「…………」
「何、あったところで俺は特に気にせんし、お前が気にするようなことは何も……」
「消えません」
 彼女は震える声で、静かに告げた。
「消えません、これは……、貴方が死ぬまで消えません……!」
「…………」
 まるで祈るように、縋るようにこの甲を彼女は自身の額に当てる。
 彼女は泣いていた。ぽたり、ぽたりと白いシーツに浸みを作り上げていく。
 恐怖であるはずの"それ"が、供物である人間のために、涙を零していた。
「ああどうして、どうしてこんな……。私はもう二度と、このようなことをするはずではなかったのに!」
「……それでは消えてしまうのだろう?」
「それでよかった、むしろ消えたかった! 誰かの犠牲の上で成り立つこの命など、惜しくもなんとも……っ!?」
 がばり、と顔を上げる。信じられない、といった面持ちで。
「今、なんて……」
「ん?」
「どうして、貴方は……。……まさか、知っていて受け入れたのですか!?」
 フフン、さてどうだろうな、と笑って見せる。
 正直、受け入れようと思って受け入れたわけではない、と思う。それはまるで空気、または本能のごとくあれは必然であり当然な流れであった。彼女にとってだけではない。俺にとっても、だ。
 彼女にはこの顔が癇に障ったのか、誤魔化さないでくださいと、涙に滲んだ双眸で俺を睨みつけてきた。
「私達"吸血鬼"は、人間の生き血を吸って生きる存在……。貴方の手に浮かんだこれは、契約です!」
「契約」
「ええ、そうです。これより先貴方は、私にその血を捧げ続けるという契約です!」
「なんだ、それだけか。それなら別にさして問題はないだろう」
「問題です! 貴方はまだ、この契約という名の呪いが持つ意味をわかっていない……!」
 ぎゅう、とこの手を握る彼女の小さく細い手に力が籠る。
 特にそれを痛みと感じなかった。ただ、俺のことを真剣に想う彼女の気持ちは、痛いくらいにこの手を通して伝わってきた。
「ああ、これは呪いだ……。貴方はこの先、老いることはない。私に与える為の新鮮な血を、細胞を、その身に宿し続けなければならないからだ。そしてそれは、この世に住む人間と、もう二度と同じ時間を共有することができないことを意味します。……わかりますか? 貴方は人間でありながら、もう人間ではないのです!」
 彼女はそこまで一気にまくしたてると、この手を掴むその手を離した。そのまま今度は、己の表情をその両手で覆い隠す。
「これまで私と契約を結んでくれた者は皆、心から優しい者たちばかりだった。このことを承知の上で、契約を結んでくれた。けれどやはり皆、十年、二十年の時を過ごすうちに、その心を蝕ませていくのです!」
 最初こそは不老となったことを喜び、吸血鬼に心からの感謝の言葉を述べる。
 けれどやがて、愛しい者たちと共有できない時間が、吸血鬼に身を捧げたことが発覚するなりその者達から浴びせられる罵倒、蔑みの言葉が、優しい人の心を蝕み、壊していく。
 そして最後には、吸血鬼に呪いの言葉を浴びせて、自らの命を絶つのだ。
「私を……吸血鬼を殺せば、その契約者も死ぬのに……」
 末路は同じなのに。こんな目に合わせた吸血鬼を殺せば、自分もまた死ねるのに。
 全てが失われゆく中、吸血鬼を殺さないというたった一欠けら残酷な優しさだけを残して、彼らは自滅するのだと。
「……もう今更だぞ」
「わかって、います……。わかっているのです! でも、私は……っ!」
 悲しみに打ち震えるその小さな体を抱き寄せて、勢い余ってその唇に口づけた。続けざまに口にしようとした言葉を絡め取るように、その口内に舌を這わせていく。
 僅かな隙間から、彼女の吐息が漏れる。苦しいと、呼吸の仕方が分からないと、胸を叩く。
 構わない、構わなかった。もうこのまま、二人の呼吸を止めてしまおうかと思った。
 その倒錯的な思考になんとか歯止めをかけ、唇を離す。はぁ、はぁと、彼女の荒い呼吸が、二人きりのこの部屋の中でやけに響いた。
「辛かったのだな……」
 細い、力を込めれば容易に折れてしまいそうなくらい細い、その肢体。何かから守るように、包み込むように抱きしめて、優しくその柔らかい金糸を撫でる。初めて触れた時、氷のように冷たかったその肌は、涙が出そうになるほど温かかった。
「お前は、優しいな……」
 彼女の熱い吐息が首筋に当たる。ふ、と嗚咽が漏れ、シャツが涙に濡れていく。
「……今は信じられぬかもしれないがな、俺は美しく心優しいお前とこの先ずっと共に在れるなら、俺にとってはそれこそ僥倖というもののように思う」
「…………」
「もちろん、俺にだって心より愛しいと思う者たちはいる。だが、それよりもな……何よりも、お前が愛しいと思うのだ」
「……戯言を」
 ああ、本当だな、と我ながら苦笑する。何しろ、出会ってまだ間もない女だ。それも、吸血鬼の。
 それなのに、不思議とこの言葉、気持ちに嘘などないように思える。彼女は今この時この瞬間、俺とこうなるためだけに、今まで生き永らえてきたのだと思えて仕方がない。
「それとも俺と共に生きるのは嫌か? ならば、今すぐこの心臓に刃を突き立てるがいい。俺も人間だ、共に生きる者のいない世界で生き永らえられるほどの度胸は持ち合わせておらぬのでな」
「……っ!」
「できぬのだろう?」
 何たってお前は、心優しい吸血鬼なのだからな、と体を離し彼女の双眸を見つめ、俺が持ち得る全ての優しさを持って彼女に微笑みかける。
 するとその頬をあっという間に薔薇色に染め、涙に双眸を滲ませながら、何とも形容しがたい顔をして視線を左右に泳がせる。そうしてもう顔を合わせていられないとばかりに、ふいっと顔を横に背けた。
「……名を」
「ん?」
「ですから、貴方の名前を! ……これから先、必要でしょう?」
 この先共に、生きて行くのなら――。
 耳を欹てないと聞こえないくらいか細い声で、そう呟いた。
 途端に胸が熱くなる。この世に俺ほどの幸福者はいまい、今なら空だって飛ぶことができようと、天にも昇る心地だった。
「ディルムッド。ディルムッド・オディナだ」
 口にしたその名に目を見開き、ほう、とまだ少し色の残るその顔で、興味深そうに再びこちらを見た。
「かの神話の英雄と同じとは、大層な名をお持ちだ。ですが……そうだな、確かに輝く貌の名に違わぬ面構え。普通の女子であれば、貴方に靡かぬ者はいないのでしょう」
「止めてくれ、俺はもうその手の話にはうんざりなのだ」
「おや、贅沢なものですね。これまで一体どれほどの女子を泣かせてきたのか、実に興味深い」
 したり顔で、これまでの仕返しだとばかりに言葉を投げる。意地の悪い笑みまで浮かべて、さも勝ち誇ったかのように物を言う。
「フン、言っていろ」
 トン、と少しの力で彼女の肩を押すと、いつも簡単に背中からベッドの上へ崩れ落ちた。ギシリ、とベッドの軋む音がする。彼女の非難がましい声が聞こえるが、意に介すことなく事を進めるべく彼女の上に覆いかぶさった。
「なんたってこの先、この俺に泣かされるのは……」
 彼女の手が胸を押し返そうとするも、力がまだ入らないのか、まるで暖簾に腕押し、糠に釘。潔く諦めよと彼女が昨日そうしたように、良い香りのする彼女の項に唇を這わせ、
「吸血鬼の少女よ、お前ただ一人だけなのだからな」
 彼女がそこへ牙を突き立てたのと同じように、まずは一つ、軽く口づけを落とす。そして、今まさに力を込めて吸い上げようとした、その瞬間――――
 グゥゥウゥ~~……
 と、空腹を告げる、彼女の腹の音が響き渡った。
「…………」
「…………」
 顔を上げ、彼女の表情を確認する。恥じらいであったり怒りであったり、戸惑いであったり投げやりであったりといった、あらゆる感情が綯交ぜとなった複雑な表情をしていた。
 そのあまりの可愛らしさと可笑しさに、我慢せねばと己を律しようとするも、どうにも抑えられるはずなどなく。
「ふ、は……」
「……っ!」
「ははっ、はははははっ!」
 腹を抱えて、笑い転げてしまった。
 彼女は始めこそぽかんを口を開けて俺の様子を見ていたが、徐々に顔を真っ赤に頬を染め上げて、体を起こしながら、もはや投げやりでしかない声色で訴えてきた。
「しっ、仕方がないでしょう! ここ数日私は、その、ろくに物を食べていないんだ……っ」
「は、はは、それは失敬……。いやだがしかし、何もこのようなタイミングで……」
「知りません……っ!」
 ぷい、とそのまま背を向けてしまう。
 ああ、これは笑いすぎたな、すっかり剥れさせてしまった。
 未だ目尻に浮かぶ涙を指先で拭い取り、ご機嫌を伺おうと何か言葉をかけようとしたところで、
「――――アルトリア」
「……は?」
「アルトリア、だ。……"吸血鬼"、ではなく、アルトリア、と」
 どんどん声が小さく尻すぼみになりながらも、そう呼んでほしいと彼女は言った。
 成程、それが彼女の名か。
「アルトリア」
「…………」
「アルトリア」
 名を呼ぶたびに、心がくすぐられる。なんだかむずがゆい。
 だが、ああ……何度でも呼んでいたい。なんと美しい名前だろう。
「アルトリア」
「そう、何度と呼ばずとも、きちんと聞こえて……っ」
「アルトリア」
 ああもうっ!と根負けして、彼女はこちらに振り返る。それでも俺は口ずさむのを止めない。
 アルトリア、アルトリア――
「アルトリア」
 もう何度目だろう。そう呼びかけたところで彼女は何かを悟ったかのように怒るのを止め、コホン、と小さく咳払いをした。
「……ディルムッド」
「――!」
「ディルムッド、ディルムッド――」
 彼女の甘い唇が、負けじとただひたすら俺の名を紡ぐ。
「ディルムッド」
「アルトリア」
「ディルムッド」
 そうしてもはや何度目か分からぬほど、お互い名を呼びあったところで視線を交じわせて、
「……ああ、」
「……はい、」
 ようやくお互いがお互いにそう応え、どちらともなくただ啄ばむだけの口づけを交わした。

 *

「さぁ、この血を飲めアルトリア。そうしたら飯にしよう。……なに、期待してくれて構わない、俺の作る飯は絶品だぞ?」
 あれから数秒後、もういい加減限界だと再び彼女の腹が訴えた。俺はというとまたそれにひとしきり笑ってしまい、彼女のお怒りを買う羽目になる。そう怒るなと、お前の好きなものを何でも好きなだけ作ってやろうと提案をすることで、何とか俺はお許しを得ることとなった。
 彼女はその顔に温かい陽光のような笑みを浮かべて、
「私にとっては貴方の血こそ、絶品ですが……まぁでは、遠慮なく。いただき、ます」
 ほんの少し恥じらいながら、そっと俺の項に唇を這わせ口づけを一つ落とし、優しく優しく吸い上げた。

 願わくばこの先、彼女のその微笑みが二度と曇るようなことのないように――――常に彼女の傍近くに在れればと、心からそう祈って止まなかった。




痺れる紅








ツイッターにて某様よりいただいたネタから。背の小さい子がね、背の高い人の血を吸うっていうシチュもいつか書きたい。
meg (2012年9月19日 16:59)
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