schema
http://monica.noor.jp/schema

「そこ、そこです! ああ、もう……じれったい!」
「ほう、そこでこうくるか……。敵ながら天晴な戦術をとるものだ」
「感心している場合ですか、ディルムッド! そうしている間にも我が軍は……って、ああーーっ!」
 彼女の悲痛な叫び声と同時に、反対側のスタンドから歓声が沸き上がる。ピカピカと先ほどから眩しく点滅を繰り返す電光掲示板の、敵方の得点欄に一点が追加されたのだ。こちらのスタンドでも彼女のもの含め声は上がっているが、当たり前だがそれらは全て嘆きによるもの。
「ほら見なさい、一体この責任をどう取ってくれるのです!」
「俺の所為とでも言いたげな口調だな、騎士王」
「貴方が敵に賛辞を贈るからこうなったのでしょう! 確かに天晴と言えど、それは戦が終わってから贈ればいいだけどのこと、今はもっと戦いに集中すべきだ!」
 言いながら彼女は群衆に混ざって立ち上がり、声援を送りだす。こうして見ると、彼女は王というよりもこういった勝負事を好む、年相応の少女のようだ。うむ、誠に善哉。清廉潔白をその身に映す王である彼女はもちろん好ましいものだが、このような彼女も大変素晴らしい。普段では知り得ない表情を、三つも四つも惜しみなく見せてくれる。
 もっとも、俺の知っている彼女の顔は、それだけでは済まされないのだが。
「……他の責任なら、お前の手を取り喜んでとるのだがな」
 周囲の喧騒に紛れ、彼女の耳に届かぬよう、ひっそり笑んで呟いた。

   *

 結果から言えば、彼女の軍勢は負けた。彼女の軍、というか、応援していたチーム、というのがこの場合正しいのだが。
「…………」
 スタジアムを出て買い物をし、家へ帰りついてもこの有様。いつもなら上向きであることのほうが多いその眉は八の字に垂れ下がり、不貞腐れたように口をとがらせているその顔の、なんと愛らしいことか。まったく、噴き出したい気持ちを必死に抑えるこちらの身にもなってくれ。
「騎士王よ、まだ膨れているのか」
「……膨れてなどいません」
「ほう、ならば鏡を持って来て進ぜよう。そこに映る己が顔を確かめるがよいぞ」
「…………...」
 冷たい机に頬を付け、返事をせずそのままプイとこちらから顔を背ける。
 やれやれ、我が王にも困ったものだ。先ほど愛らしい愛らしいと言ったはものの、やはり俺は何よりも、彼女の花のような笑顔を好むのだ。
 腰につけた黒のカフェエプロンを外し、綺麗に折りたたんでカウンターに置く。腕まくりしていた袖を正しく直し、定位置に座り未だ不貞腐れる彼女の元へ急ぐ。手を伸ばせばすぐに触れられる位置に辿り着いても、彼女はこちらを振り向こうとしない。
 小さく肩を竦めて、その場に跪いた。
「王よ。この不肖ディルムッド、僅かでも王の御心が晴れやかになればと、誠心尽くして夕餉をご用意いたしました。一口でもお召し上がりいただければ、この上なく僥倖に存じますが」
 いかがでしょう、と顔を上げる。しばらくの間を置いて、ようやく彼女は緩慢な動作で俺の方に目をやった。その顔は少しばかり、赤い。俺ほど彼女の扱い方を心得ている者は、そう他にいないだろうと思う。こればっかりは譲れない。
「……良い、今回ばかりは許そう。私の気が代わる前に、はやく持ってくるがよい」
 大抵彼女が俺の物言いに付き合う時は、自分の行いを恥じている時だ。
 ならばと立ち上がり、腰を屈めて彼女にこの手を差し出す。「食事の前は、まずは手洗いから」と告げると、彼女は大人しく右手をそこに乗せ、席を立つ。
 リビングルームを出てすぐ右手にある洗面所までそのまま導けば、
「手を洗うことくらい、一人で……できます」
 そう小さく呟いて、俺がするよりも早く蛇口を捻り、小さな両手を擦り石鹸を泡立てる。まるで小さな子供が一生懸命そうするような行動に、つい胸が一杯となり、
「この方が効率が良い」などともっともらしいことを言って、後ろから抱きすくめるように彼女を包み込み、この両手をその手に重ねて共に石鹸を泡立てた。
 彼女は小さく、ばか、と呟いた。

 *

 テーブルの上からはみ出さんばかりに並べられたそれに、彼女はこれでもかというくらいその翡翠の双眸を輝かせていた。
「フィッシュ・アンド・チップス、ローストビーフにミートパイ、キッパーにヨークシャー・プディング……!!」
 野菜もしっかりと食べるように、と釘を刺して、その合間合間にサラダや温野菜を置いていく。飲み物はローズのライムジュースに、たまにはこの時間から飲むのも良いだろう、ジンとビールにシードルを用意した。
「まぁ待て、そう慌てるな」
 今にもフォークを手に取り目の前にあるローストビーフに突き刺しそうな彼女を片手で制し、このグラスを持つようにとそれを差し出す。彼女は大人しく受け取り、俺の意図することに気が付いたのか、「シードルを」と斜めに傾ける。黄色みがかった液体をボトルからグラスへ注ぐと、とたんに爽やかな音を立てて泡が立った。
「貴方は、」と聞かれるよりも先に、同じものを自身のグラスへ注いでいく。少しばかり不服そうな顔をするも、すぐに元の表情へ戻った。コレに関してはいつものことなのだから、今更変えられようもない。いつか貴方に酌を、とその機会を虎視眈々と狙っているのも知っている。だからこそ譲れないのだ。
「さて、では乾杯と行くか」
 二人だけの部屋、二人だけの食卓。お互いグラスを高く掲げ、
「我らが祖国、グレートブリテン島に乾杯っ」
 キンッと涼やかな音色を響かせた。

 食指が動けば杯も進む。目の前の皿は瞬く間に空となり、空き瓶の数も手加減なしに増えていく。なに、お互い酒には幼少の頃から(というのはこの国では御法度か)鍛えられている。シードルやビール程度ではまだまだ、ただの水のようなものである。
 彼女はアルコールに少し飽きたらしく、珍しくライムジュースに手を出していた。普通スーパーなどで目にするそれよりも、少し黄緑色がかっているのが珍しいのだろう、グラスに注ぐなり、そのボトルのラベルを物珍しそうにまじまじと見ている。
「それはな、騎士王。ローズ社製のライムジュースなのだ」
「ローズ社……?」
「知らぬのか。ある本の一説で、『本当のギムレットはジンとローズのライムジュースを半分ずつ、他には何も入れない』と言わしめるほどの上物だ」
 何しろ出回る量が少ない、手に入れるには些か苦労した。だがどうにも一度これでギムレットを飲んでしまうと癖になり、いつもの味に戻れぬのだ、と笑った。
「ギムレット、ですか……」
 グラスにその桜色の唇を押し当て、ぐい、と口内に注ぐ。なるほど、これは他に比べて甘いなと、口の端から少し垂れたそれを手の甲で拭った。
「ギムレットも知らぬか」
「な、名前くらいは知っています! ただ、その……」
 飲んだことが、ないだけですと言って、再びグラスを仰ぐ。
 ふむ、まぁ確かに知らずともおかしくない。ギムレットはアーサー王の時代よりも遥か後、イギリス海軍の軍医であったギムレッ ト卿により編み出されたものと聞く。彼女より遥か昔、神話の時代を生きた俺が知っているのは、パブでのバーテンダーを仕事としている故だ。
 幸いここにはジンがある。彼女が望むならば、今すぐここでシェーカーを振り作ってやることもやぶさかではない、が。
 ひとつ、悪戯心が首をもたげる。
「……騎士王よ。ここはひとつ、特別なギムレットを味わせてやろう」
 トン、とまだ封の開けられていない酒瓶の群集から一本、透明の瓶を取り出す。コルクを引き抜き、トポトポと俺の杯に注いだ。彼女には引き続きライムジュースを仰ぐよう指示する。……少しだけ、口内にそれを残しておくよう加えて。
 む、と彼女がなにやら頬を膨らませ、唇
を一の字に結んで訴えてくる。ああそうか、準備が出来たか。
「ならば、目を瞑っておけ」
 何故という目を向けるものの、片目を瞑ってやればぐぐっと何か堪えるような顔をして、両目を瞑る。ああ、本当に素直な奴だ。その素直さは命取りだぞ、騎士王よ。
 極力この唇が笑みを漏らさぬよう、必死に律しながらゆっくりと立ち上がる。先程、とあるリキュールを注ぎ入れたグラスを片手に、物音を立てぬよう彼女のすぐ隣まで体を運んだ。気配に気がついたのだろう、瞼は閉じたまま彼女は正しく俺のいる方へ手を伸ばしてくる。その手を空いている片手で絡め取り、唇へ寄せた。わざと音を立ててそこへ口付けを落とし、それに彼女が怯んでいる隙に、もう片方の手に持つグラスに入ったリキュールを口内へ注ぎ込んだ。
 このリキュール特有の苦味が口一杯に広がる。さすがに少し、熱い。空になったグラスをコトリとテーブルに置き、彼女の顎に手を添える。
 当然だが、ここまでの間に言葉はない。それでも俺を信じ、大人しく瞼を閉じ待っている彼女。
 ああ、なんといじらしい。
「────っ!!」
 そこから先、俺が彼女に何をしたかというと、それはもう想像に容易かろう。
「ん……っ、ふ……」
 唇を重ねた瞬間無理矢理こじ開けて、リキュールを流し入れる。俺の口内から、彼女の口内へ。見開かれた双眸は、驚愕の色に染まっていた。だがそれも、一瞬のことだった。
「ふ、ぅ……んんっ!」
 隙間から溢れたそれが、彼女の顎を伝う。触れる唇が燃えるように熱い。翡翠のそれは溶けるように揺れる、揺れる。
「ん、んぅ……」
 彼女の喉が底となっている以上、苦しいだろう、早く飲み込めと顎をさらに上向かせ、促す。これくらいの度数で参る彼女ではないはずだ。たびたび触れる彼女の舌からは、ほんのりとライムジュースの味が伝えられてくる。ひどく、甘い。こんなにもアレは甘い飲み物だっただろうか。ジンにしても、そうだ。今はもはや、途方もない甘さしか感じられない。
 やがて、ようやくごくり、ごくりと吸い込まれていく音が、彼女の奥から伝えられてくる。水嵩は減り、仕方なく俺は彼女の口内にほんのりと残された余韻をひたすら楽しみ、弄ぶことに没頭する。歯列へ、舌の裏側へ、さらにその奥へこの舌を這わせて。
 遂に最後まで飲み干しただろうことを確認し、ゆっくりと唇を離す。ぜいぜい、と呼吸の仕方を確認する彼女の双眸は濡れていた。もちろん、口の両端からはその残骸が残されたままで。
「……王よ、お味は如何でしたか」
 俺も、自身の唇に残された余韻を舌で舐めとった。ギムレットの味と共に、もう一つ、彼女の甘い味がする。
「味、なんて……わかるわけがない……っ!」
 このばか! と本日二回目となる可愛らしい悪態に、俺はその残骸と更なる甘味を味わうべく、再び彼女に手を伸ばした。




夜更けの喧騒を  
 ギムレットに寄せて








これを書いた当時、ロンドンオリンピックが開催されていまして。いろんなイギリスを絡めた結果、どうしてこうなった。
meg (2012年9月20日 10:20)
カテゴリ:

Mail Form

もしお気づきの点やご感想などありましたら、
mellowrism☆gmail.com(☆=@)
までよろしくお願いいたします。

Copyright © 2008-2012 Meg. All rights reserved.