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「まだ残ってたのかよ」
 それまで自分の席にある電気スタンド以外、灯りの灯っていなかった部屋を、突如明るい光が支配する。すっかり闇に慣れ切ってしまっていた瞳を、その眩さについ細めた。
「せめて部屋の電気つけてやれ、視力悪くすんぞ」
「クー先輩……」
 声のする扉の方へ、未だ細めたままの目を向ければ、そこには俺より二年ほど早く入社し、教育係を務める先輩がいた。手は未だ電気のスイッチのもとにあり、眠そうに大きく欠伸を一つ。
「まーた部長に変なイチャモンつけられたか、ったく……」
 自分の女の世話くらい自分でしろってんだ、と丸めた資料書を片手に大股でこちらに向かってくる。隣りの席の椅子を引出し、背もたれを前に、跨ぐように座った。
「なんだぁ、こりゃ……来年一年分の年計……? 別に今出さなくてもいいだろうがよ……」
「いえ、突然明日会議が行われることになったとかで……」
「ってもそりゃあ、てめえの仕事だろ。お前の仕事はもっと別にあるだろうが」
「ええ、まぁ……。あ、でもそれは全て片づけましたから、大丈夫です」
「そういうこったねえだろ……」
 もう一つ大きな欠伸を落として、画面を覗き込むように、さらに身を乗り出してくる。微かにコーヒーの香りが漂った。
 そういえば、確かにこの人は定時から一時間ほど残業した後、退勤していったはずだ。それが何故今ここにいるのだろうと首を傾げる。俺のそんな視線に気が付いたのだろう彼は、気まずそうに右手で頭を掻いた。
「あ? ああ、まぁ……俺もちょとヤボ用があってな」
 と言葉を濁す。あまり口にしたくない理由となると、大抵が彼の同居人、あるいは社長の無茶振りによるものだろうと想像がつく。彼も俺と同様、運が無い。苦笑を漏らしつつ、これ以上は彼の為に聞かないことにしよう、と再び目を画面へ戻した。
「あー、ここの数字、ちょっとデカすぎだな。今年あんま成績よくなかったんだ、ちょっと抑え目にしといたほうがいい」
「あ、成程……」
「あとここな。あの野郎のことだから、多分コイツを営業に持ち出してくる。ヤツにとっちゃあ自信作だ、少しでっかめに数字のせときゃあ、機嫌も少しはよくなるだろ」
 そう言ってキーボードを奪い、瞬く間にあらゆる数字を訂正していく。全体利益は今年と変わらず、だが見た目や内容は大きく違う。
「……さすが、お見事です」
 伊達にお前より長く社畜やってねえよ、と彼は笑った。

「あー、そういやお前、今日車で来たのか?」
「は? あ、いえ……。恥ずかしながら、俺は免許を持っていませんので」
「そうなのか。んじゃあ、あの車はなんだろうな」
 彼のおかげでサクサクと事は進み、報告書の印刷を終えパソコンの電源を落とす。後は窓の鍵とブラインドの閉め忘れを点検しようと、南側の窓際へ近づいた。
「ほら、そっから見えるだろ。シルバーのミニ」
 ここ最近なかなか見ない車だからな。ありゃーいい車だけど俺には小さいんだよな、と座っていた席を元に戻す。シルバーの、ミニ……。
 ブラインドの隙間から、下を見下ろした。道路脇ガードレールに沿って停車し、月の光を一身に浴びる、銀色の小さな車体が一つ。
「…………っ!!」
 急ぎその場を離れ、慌ただしく電気スタンドのスイッチを消し、椅子の上に置いていた鞄に手を掛けた。
「んお、なんだぁ?」
「す、すみません先輩、窓とブラインドは大丈夫だと思いますので、お先に失礼します!」
 それだけ言い残して、自慢の俊足を生かし風のように出入り口へと駆け出していく。一言も挟むことができずに呆然と後輩を見送った彼は、この部屋に火災報知機が仕掛けられていることも忘れて無意識に煙草へ火を点けた。
「なんだぁ、アイツ……」
 ふぅ、と煙を吐き出したその直後。部屋中に警報が鳴り響き、彼が大目玉を喰らうことになるのは、また別のお話。

 正門はすでに施錠が掛けられていて出入りができない。小さめの裏門から会社を出、急いで大通りへと走っていく。先ほど上から確認できた車は、逃げることなく、そのままの場所で俺を待ち続けていた。
「セイバー!」
 大声でそう呼ぶと、運転席の窓がウィーン、と音を立ててゆっくりと下がっていく。
「どうしたんだ、いつからここで待っていた?」
 顔を覗かせたのは、金色の髪と翡翠の双眸を持つ、顔立ちに幼さを残す見目麗しい少女。
「いえ、つい先ほど来たばかりです。何てことはありません、少し夜の街を走りたくなったので、そのついでに」
 そんなはずはない。先輩が部屋に来てから、ゆうに四十分は経過した。その前に彼は見たというのだから、かれこれ一時間近くは待たせたことになるだろう。嘘をつけ、と拳で優しく額を小突けば「どうして分かったんですか」と悪戯がばれてしまった子供のように、あどけない笑顔を見せた。
「さぁ帰ろうか、俺はもう空腹で死にそうだ。今日はお前の手料理が食べられるのだろう?」
「……善処はしました。少なくとも、桜からは合格点をいただいています」
「それならば安心だ」
 助手席へ滑り込み、シートベルトを締める。この車は、俺の体を納めるには少しばかり小さいが、それがいいのだと彼女は言う。
「ええ、ですがその前に、少し遠回りをしていきましょう。貴方と行きたいところがある」
「ほう、それは何処か、聞いてもよいのか?」
「到着するまでの秘密です。さぁ、行きますよ!」
 ギアを入れてアクセルを踏む。心地よいエンジン音を響かせて、彼女の操る鋼鉄の騎馬は走り出した。
 彼女と籍を入れて丁度一年目。雲一つない、月の美しい夜のことだった。




月が見ている








クーが好きすぎて...夏。彼女の運転する小さな車で、彼氏がきつそうに背中丸めて乗り込むっていう姿を書きたかった。
meg (2012年9月20日 10:47)
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