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 携帯電話の待ち受け画面右上に表示されている現在の時刻と、ブラウザ上で表示されている時刻を何度も何度も見比べる。しかし何度見比べても結果は変わらない。なんとも無情なことに、表示されている二つの時刻は、寸分違わず全く同じなのだ。いや、たった今を持って、現在時刻が一分上回った。
(…………)
 周囲に悟られぬよう、小さくため息を零す。
 さて、これは困った。つまりはこのまま電車に乗っていても、乗り換えに使う駅までしか辿り着くことができない。その乗り替えるはずだった路線の最終電車が行ってしまったのだ。原因は、今現在乗っている路線の事故による遅延。
 普段ならば、どこぞの二十四時間営業を行っているレストラン等で始発の電車が出る時刻まで待機という手段を取るところだろう。しかし、本日ばかりはそういうわけにはいかない。何故なら、携帯電話を持たぬ方の手に、ある物を持っていたからだ。

 一面に広がる赤。その顔の肌触りはまるでビロードのごとく滑らかで、また華奢な身体には、摘み取ろうとする不届き者から守るべく、棘がびっしりと張り巡らされている。
 命を繋ぐ水を含ませてきたとはいえ、この蒸し暑い季節、乾燥し果ててしまうのは時間の問題。翌朝までは持ってはくれぬだろう。

 さて、どうしたものかと再び思考をそちらへ返す。まぁ、よくある手段としては、タクシーを用いる方法。この距離と時間では、少しばかり値が張ることだろう。とはいえ徒歩で帰ろうとすれば、軽く二時間程度はかかる。いくら体力のある俺とはいえ、仕事帰りの今、流石にそれは堪らない。
 それと、もう一つ。
 待ち受け画面に表示されているブラウザを閉じ、メールを開く、受信ボックスに表示されたフォルダは、"メインボックス"ともう一つ。そのもう一つの方のフォルダを開き、一番最近に受信したメールを開いた。

<お待ちしています。>

 絵文字も何もついていない、ただ簡素なその一文。しかし、この一文を目にしただけで、どのように辛い仕事も難なくこなせ、また部長の謂れのない辛辣な言葉にも耐えられるという魔法にかけられた。不意に微笑みが零れる。どのような表情をしてこの一文を打ったのか、それを考えただけで幸せな気持ちになった。
 ……が、結局のところ、このような時間になってしまったのだが。
 もう一度、今度は大袈裟にため息を漏らす。通り過ぎた誰かが、チラリとこちらを見た。

 こうしていても埒があかない。もう数分で日付変更の時間を迎える。もはやそのような時間に女性の自宅を訪ねるなど言語道断である。
 暗い気持ちで画面を遷移させる。新規メール作成画面。送信先に彼女のアドレスを入力し、本文へメッセージを入力する。
 まずは謝罪の言葉と明日の予定。そして、ふと思い立ち、一度下書き保存をしてカメラを起動させる。出来る限りその赤が映えるよう白い壁を探し、人目も憚らずシャッター音を鳴らした。
 そして、

<綺麗だろう? これをお前に見せたかったのだ。>

 メールに撮影した写真を添付し、一文を添える。送信ボタンを押して、カチリと携帯電話を閉じた。パンツの後ろポケットに仕舞い込み、改札をくぐろうと代わりにICカードの入ったパスケースを取りだす。青く光る認識プレートにかざそうとしたところで、尻のほうから振動が伝わった。
 すぐ後ろに並んでいたご婦人に詫びをいれ、急ぎその場を離れる。もう一度先程の場所に戻って、慌てて振動元のそれを取りだした。
 新着メールを知らせる光の点滅と共に、サブディスプレイに表示がされているのは彼女の名前。確認するなり二つ折りのそれを開く。最近の携帯電話は便利だ、待ち受け画面に表示された新着メールの項目を選択するなり、すぐ本文を開くことができる。

<今、どちらにいるのです?>

 彼女らしい、簡潔な一文。返信ボタンを押し、こちらもまた簡潔に駅名を入力して返す。
 と、数秒もせずに新たなメールの受信を伝えられた。

<なるほど、分かりました。そこを動かぬよう、そのまましばし待機してください。迎えに参ります。>

 迎え……迎えだと?
 しばし待て、彼女の家からここまでどれだけかかると思っているのだ。しかもこのような時間に迎えなど、容認するわけにはいかない。
 大丈夫だ、お前さえよければ明日会えるではないか、とメールを急ぎ返そうと返信画面を開く、が、それよりも早く新たなメールの受信を知らされる。一体誰だ、このような時にと、振り分け先だけ確認したら、内容の確認は後回しだとフォルダ画面を表示させる。
 振り分け先は、彼女のフォルダ。
 
<異論は受け付けませんので、あしからず。>

 思わず頬が緩む。先程ああは言ったが……そう、焦る気持ちの他に、嬉しさが心の半分以上を占めていたという事実を否定できない。
 彼女に、会える。彼女も俺に、会いたいと思ってくれていた。

 手の中にある薔薇の良い香りを、身体の隅々まで行きわたるよう大きく息を吸って堪能する。
 本日お前に手渡すのはこの赤となったが、いつの日か必ず、お前に最も似合いのその色を贈るとしよう。紛い物ではない、奇跡、神の祝福、不可能の青。その色はお前のものだ、何故なら今日もお前は、不可能を可能へと変えた。

 内容の入力されていないまま下書き保存を行った返信画面を今一度開く。

<お前には敵わん。承知した、ここでお前を待っている。>

 そう返信をして、踵を返し出口へ至る改札へと足を運ぶ。ため息は鼻歌へと変わっていた。




不可能の青








私に実際に起きた出来事を、幸運Aへ引き上げました。(私には迎えは来ず、タクシーで帰りました...。)
meg (2012年9月20日 11:00)
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