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 今日は全く以てついていない。
 普段より良い方ではないと思っている幸運値が、遺憾無く発揮されている。

 清々しい朝を迎え、温かい日の光を全身に浴びた後、パリっとした皺ひとつないスーツを身に纏った。今日は、私のマスター……キリツグの知己である人物による、とある懸賞論文の受賞記念式典並びにダンスパーティーが開催されるという日である。そのような場で失礼があってはならないと、予め用意していた上等のものだ。
 さて準備は万端だといざ彼女たちの元へ向かい、「おはようございます」と口にする。間髪入れずに、「おはよう、セイバー」と、いつものように優しい声色で返答がされる……と、思っていた。
 しかしアイリスフィールは私を見やるや否や、表情には笑みを浮かべたまま、口を噤む。そして一瞬の沈黙の後、マイヤの名を呼んだ。
 次の瞬間気が付けば、纏っていたはずのスーツは消え失せて、代わりに私などにはどう見ても不釣り合いと思われる、薄水色の上等なシルクが身に着けられていた。
 出発時刻まであと十数分。着替え直す暇などもはやない。そもそもスーツの行方がわからない。更には、「セイバー、とてもよく似合ってる。その姿の貴方と一緒に参加したいわ。ね、お願い!」などと瞳を輝かせて言われてしまえば、浮かんでいたはずの抗議計画は音を立てて崩れ去る。

 八方ふさがり、四面楚歌。
 もはや私に、それ以外の選択肢を選ぶ術などなかった。

 しぶしぶその恰好で出かければ、今度は開場を待つ最中に、気が付けばバッグに取り付けられた大ぶりのラインストーンが二つとも取れて消え失せた。
 よくあることだから気にするなと彼女は言うが、そうも言っていられない。
 来た道を捜し歩き、何とか地に落ちたそれらを確保したものの、この場ではどうしようもない。後でマイヤにご助力願おうと、バッグの中へと大切に仕舞いこんだ。

 そうして今回。二度あることは三度ある、とは、よく言ったものである。出来る事ならば、三度目の正直を叶えたかった。

 屋内からは暖かい光が零れ、人々の楽しそうな笑い声がさざめいている。今日が穏やかな過ごしやすい気温で本当に良かった。チューブトップのドレスにオーガンジーのショールをはおっただけのこの姿でも、たいして寒さを覚えることなくこの場に腰を落ち着けていられる。
 はぁ、と小さくため息を吐き、右の片足を地面と平行になるように持ち上げて、そうして再び、今度は大きくため息を吐いた。
 黒のスパンコールが敷き詰められた、美しいミュール。ピンヒールは約五センチメートルの高さがあり、小さな私の身長を、少しだけ伸ばした。(おかげで式場に入ってすぐのところにいたウェイバーより、苦々しい視線を賜わることとなったが。)
 普段、このような靴など履くことはない。大体が爪先に銀の板を張り合わせた革靴である。このように動きづらい靴で、満足にキリツグを、そしてその奥方であるアイリスフィールを御守りできるわけがないからだ。
 そう、私は彼らの護衛役である。だからこそ、今日だって普段通りスーツで参加するべきだった。そもそも、こういった式場だからこそ十分に注意を払うべきだ。マイヤがいてくれるから大丈夫、だとか、そうも言っていられない。万一のことが起きたらどうするのです。
 ……もちろん、彼女の願いに抗え切れなかった私にも非があるわけだが。

「――セイバー?」
 後ろからかけられた声に、慌てて上げた足を地へ戻す。この声の持ち主が誰であるかは分かっている。私はおもむろに、顔だけをそちらの方へ返した。
 そこに立っていたのは、射干玉の髪に琥珀の瞳を持つ男。
 ほうら、予想通りだ。この会場内で、そのように艶やかな声を持ち、このような場までやってくる理由を持ち得る者など、彼くらいしか思い当たらない。
「ああ、やはりセイバーか。どうした、このようなところで」
 キリツグの知己である人物は、彼のマスターとも知己であると聞いていた。だから、彼がこの場にいることも、何ら不思議ではない。
 彼はストライプの入った黒のスーツに身を包み、首元には黄金色に光を放つ白のネクタイを締めている。胸ポケットからは、清楚な白い薔薇が顔を覗かせていた。ああ、これではああいったことになったとしても、致し方ないと言えよう。
「こんばんは、ランサー。おおよそ貴方は、会場内のご婦人方より逃げてきたのでしょう」
 すると彼は両肩を竦め、緩くかぶりをふり、私の前へと回り込んだ。首を捻ったままでは辛かろうという、彼の心遣いに他ならない。そのお気持ちをありがたく頂戴し、私も顔を前へ戻す。
「安寧の地を探し求め歩き、ついに見つけたと足を踏み入れてみれば、先客がいたというわけだ」
「なるほど、それは失礼いたしました。全てを明け渡すわけにはまいりませんが、半分程度でしたらおすそ分けいたしましょう」
「忝い」
 石でできたベンチの中央に位置していた腰を少し浮かせ、足の裏を地面から離すことのないまま、右横へずれる。ドレスの裾と座席の隙間に両手のひらを一度くぐらせて、今一度座りなおした。
 失礼、と彼は告げて、静かに腰を下ろす。長い足が折りたたまれて、ほんの少し距離が縮んだ。
「それで?」
 え? と顔を上げる。彼は穏やかな顔つきで、私をただ見つめていた。
「足を、どうしたのだ」
 言葉を失った。彼にはそのようなこと、何一つ告げていないはずなのに。
 そのまま、九〇度真下へ視線を落とす。その先にあるのは、私の両脚と二対のミュール。月の光を浴びて、キラキラと輝く黒のスパンコール。
 パッと見た限りでは、分からないように思うのだが。
「……さすが、目聡いですね」
「せめて鋭いと言ってくれないか」
 苦笑を零し、で? と彼は続きを促す。私は眉をひそめ、そしてため息を一つ落とした。
 その後、観念したかのように背を丸めて足元へ手を伸ばす。右足首に巻きついたストラップを外し、爪先からそっとそれを引き抜いた。
「これです」
 脱いだ靴の先端に人差し指の腹を当てて、手前に引く。すると、本来ならば起こりえないことが、目の前で起きた。
「これは……」
「ええ。これで歩いてはみっともないでしょう」
 いたずらがばれた子供にように、舌を丸める私のミュール。
 そう、ゴム製の靴底が、大きく剥がれてしまっていたのだ。
「歩く際に、何かつっかかると思い見てみれば、こうでした。恐らく、いつか歩いている途中に、先端を何かに引っかけて、そのまま剥がしてしまったのでしょう」
 右足を上げるたびに、だらしなく垂れ下がるそれ。それだけならまだしも、運が悪ければ歩いている途中で転んでしまう可能性も孕んでいる。
 アインツベルンの護衛役が、そのような醜態を晒すわけにはいかない。そうなる前に、人々の目をかいくぐり、こうしてここまで避難してきたのだ。つまりは、そういうこと。
「なるほど、それは難儀だったな」
「全くです。今日は、朝からついていない」
「ほう」
「そもそも、アイリスフィールがこの格好を私に強要しさえしなければ、このようなことにはならなかったはずです!」
「なるほど、奥方殿が……」
 彼の零した言葉に、はたと我に返る。
 違う。別に、彼女の所為ではないのに。全ては私の、不注意故なのに。
 手の中にあるミュールをぎゅうと握りしめ、首を垂れる。石畳に触れる右足の裏から、その冷たさが伝えられてきた。
 自分の不甲斐なさを誰かに押し付けるなどと――。騎士として、失格である。
「……では、俺は奥方殿に謝辞を述べなければ」
「――は?」
 彼の右手が、スーツの胸ポケットからあるものを取り出した。そしてそれは私の右耳後ろへ、すいと差し込まれる。
 鼻を掠めたのは、甘い白薔薇《ロサ・ギガンティア》の香り。
「奥方殿のおかげで俺は、お前のそのように美しい姿を拝むことができたのだからな」
 瞳を大きく広げたまま、どう反応を返してよいかわからずにいる私を置いて、彼の両手は私の手の中にあるミュールへ添えられた。やんわりと力の込められた手のひらを解かれ、それは彼の膝の上へと移動する。
 続いてパンツの左ポケットから取り出されたのは、シルクのハンカチーフ。彼はそれを大きな正方形へ開いたあと、くるくると細長い形状へと変化させ、ミュールの甲部分へ回し、結んでいく。
「ら、ランサー、あの……」
「うむ、これで良いだろう」
 きゅっときつ目に結い上げて、裏表へ返し、底が剥がれ落ちないことを確認する。何もなかった甲の上に施された、純白のリボンが風に揺れる。
「いけません! これではあなたのハンカチが……」
「お嬢様」
 私の言葉を遮るように彼はすっくと立ち上がり、私の目の前へと移動すると、その場で恭しく跪く。
 私よりも下にある、彼の目線。見上げ、瞳を細めて微笑むと、
「お御足を、拝借いたします」
 そう告げて、私の右足首に、触れてきた。
 石畳の温度で冷え切ったはずの右足が、急に熱を孕みだす。
 ゆっくりと爪先を指し込まれ、踵を納められる。細いストラップを足首に回し、留め具へパチリと引っかけた。
「さぁ、お嬢様」
 ゆったりとした速度で私の足を地へ戻し、右手を胸へ、左手を手のひらを上に私へ差し出してくる。
 屋内からは、ビブラートのたっぷりと掛けられたバイオリンの音色。その音色は二人の周りを取り囲み、それ以外の物を何も視界へ入れさせず。
「私と、どうかワルツを。何分踊り慣れないもので、ご迷惑をお掛けするやもしれませぬが」
 流れる曲は"ムーン・リバー"。恋人同士ではない、昔から知っているような、幼なじみのような友達の様な関係。いつの間にか消えて、いなくなってしまうような、不安定な関係。
 不思議で、一言では言い表せない関係。そんな二人を表現している、この曲。
 ええ、そうですね。それはまるで、私たちを表すようですね。
「……良いでしょう、ワルツは得意です。私がリードして差し上げます」
「それは身に余る僥倖。では、」
 私はすっくと立ち上がり、右手を伸ばす。その手のひらへ――預けることはせず、握り、ぐんと力を込めて彼を立ち上がらせた。
 彼の右手を私の左手のひらに乗せ、私の右手は彼の腰元へ。彼の双眸は大きく開かれる。

 言ったでしょう? 私がリードして差し上げます、と。
 すると彼はくすぐったそうな顔をして、大人しく右手を私の背の低い肩の上へ預けた。

 夜空の下で、二人はくるくると回転木馬の如く、回る、回る。
 音楽が終わるその瞬間まで、月はいつまでも二人を照らし続けていた。



あなたとワルツを









ついった等でお世話になっているFゆこさんに、私も書くから槍剣描けよと半ば脅すような形で乞食した時に書いたもの。セイバーさんの身に起きた踏んだり蹴ったりは、実際私の身におきたことです。しかし私にランサーは現れなかった...。←
meg (2012年11月21日 09:31)
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