schema
http://monica.noor.jp/schema

 駅から徒歩で二十分程度ある会社までの、丁度中間当たりに位置する場所に立つ喫茶店は、おおよそ"通いやすい"場所であるとは言い難い。
 しかし、人の多い会社の側、あるいは駅の側という場所は、俺にとってはどうにも安寧の地になり得ない。せめて、昼休憩の時間くらいは、一息つきたいものだ。
 だからこそこうして、中間地点であり人の集まりにくいこの地にある喫茶店まで足を運んでいる。繁盛していないわけではないが、店の持つ独特の静けさがとても心地よい。

 例外なく今日もこうして、この喫茶店までやってきた。
 いつもの席に着くと、わざわざマスターが自ら注文を取りにやってくる。その理由としては、「来るたびに無銭飲食されてはたまらん」、のだそうだ。
 女性店員ではなく初めて彼が注文を取りに来て、そうと告げられた時、詫びようとすればかぶりを振り、冗談だと口にした。が、己自身のこと、自覚はある。この表情から俺がここまで通う事情までも察知したのだろう彼は、来たければ毎日だってくればいいさ、と肩を叩きカウンターへ戻っていった。
 それ以来、いつだって彼がこうして注文を取りに来る。彼の居ない日は、男性の店員がわざわざ取りに来てくれる。お二人共非常に良い方々だ、誠に痛み入る。
 
 スマートフォンを机に置き、ハードカバーの本を開く。脇に置かれた本日のメニューは、いつものブラックコーヒーと、"茄子とトマトのオープンサンド"。流石に男性の俺でも、少し開けただけでは口に収まりきらないボリュームである。食す際に口元を汚してしまうのは必然と言えよう。
「ナイフとフォークを使おうなんて邪道な真似はすんなよ? 男ならガッツリと行け」、とは、運んできた男性店員の弁である。
 ああ、これはさすがに読みながら食べることは出来ないなと小さく苦笑し、開いた本をパタリと閉じた。汚すことのないよう鞄の中へ仕舞いこみ、また万が一の時の為にポケットティッシュを用意しておこうと大きく口を開いたところで、

「……ディルムッド?」

 涼やかな風が、顔を上向かせた。

「アル……トリア? なぜ、ここに……」
「それはこちらの台詞です。ここは貴方の会社から離れているでしょう?」
 かっちりと黒のスーツを着こなし、金色の髪を一つに結わえてこちらを見下ろしている。奥から、小さな歓声が聞こえた気がした。ああ、確かにこうして見れば、麗しい少年に見えなくも、ない。
 しかし、彼女はれっきとした麗しい少女だ。もっとも、それを言うと口を尖らせるのは彼女、目の前の張本人のみだとは思うが。
 窓の外へちらりと視線をやれば、BMWのシルバーの車体が、顔を覗かせている。誕生日にプレゼントとしていただいたという彼女の愛車だ。陽の光を眩しそうに反射させている。よく手入れが行き届いている証拠だ、それほどまでに愛しているのだろう。
「なるほど、奥方たちを送った帰りというところか」
「……ええ。今日より旦那様が海外出張となりまして、そちらにアイリスフィールも向かいたいとおっしゃったものですから、空港まで」
「奥方付きのご婦人は?」
「無論、ご一緒に」
「そうか」
 向かいの席に置いていたコートを引き払い、彼女に着席を勧める。俺の姿が窓越しに見えたから立ち寄っただけだと、引こうとする彼女を無理を言って押し留めた。
 女性にそのようなことを言われて、ただで返す男がどの世にいるだろう。そう口にすると彼女は、「貴方はまた私を女性扱いする……」と口を尖らせながらもそれ以上抵抗することなく、席についた。
「海外というと、どのあたりになる」
「イギリス南西部にある、チェルトナムという小さな町だそうです。緑の豊かな町で、そこである計画が持ち上がっているのだとか」
「ほう、初耳だな」
「ええ。まだ計画段階ですので、発表はまだ、先……」
 あ、と口に手を当て、気まずそうに視線を泳がせる。社外秘、とまではいかないが、あまり公にはすべきでない内容だったのだろう。特に、彼女の主が運営する社と、俺の従事する社は、目指す場所の似通った、言わば好敵手。あまり、俺に口を滑らせるべきではない。
 くっ、と口をついて出そうになった笑みを噛み殺すべく、視線を下へ下げる。
「あの、ディルムッド……」
 こちらが顔を下向かせている為、彼女の表情を窺い知ることはできないが、その声色からだいたいのことは想像がつく。大丈夫だ、心得ている。大体、お前と俺の仲だろう。心配するようなことはなにもない。なぁ、そうだろう?
「安心しろ、決して口外したりはせん。少しは信頼してくれ」
「っ、信頼していないわけではありません!」
「わかった、わかったから席を立つな。ほら、皆見ている」
「~~……っ」
「これを食べて、落ち着くといい。良い匂いだろう、きっとうまいぞ」
 すぐ隣から匂い立つ、チーズとミートソースの香り。ほら、と皿に手をつけ、ずいと彼女の視線上へと持っていく。
 俺は、分かっているのだぞ。度々お前の視線がこれに向けられていたことを。
 ごくり、と彼女の喉がなる。恐らくは葛藤しているのだろう。気持ち的には頷きたいが、俺に対する遠慮がある、と、そういうことだ。
 面白い。ならばその揺らぎを、こちら側へ陥落させるまで。
「このトマトはな、もぎ立ての新鮮なものだそうだ」
「……」
「茄子は丁度今朝、店に届けられたばかりと聞く。このバゲットもほら、オーナーが自ら焼かれている」
「う……」
「間に挟まれたバジルの葉は自家栽培のもの。野菜を焼く際に使われているだろうオリーブオイルも絶品でな、どちらのものか聞いても教えてはくれんのだ」
「――~~っ、」
「いや、まぁもちろんいらぬのであれば、俺が食すまでなのだが。なに、無理をするな。これは俺がいただ……」
「いただきますっ!」
 ぱんっ、と両手のひらを顔の前で合わせ、小気味よい音を鳴らす。俺の手が二切れのうちの一つを拾い上げるよりも早く、目的としていたそれを彼女の小さな手が攫って行った。
 大きく大きく口を開けて、まずはひとかじり。ああ、いつもならば吊りあげられている形の良い眉の端が、下へ下へと見る見るうちに下がっていく。
 ん~~、と至福を噛みしめて、もう一口、とそれを口の中へ導き入れる。可愛らしいことだ、口元に赤いケチャップが付いているぞ。
「……なんれふ」
「いや、美味そうに食べるものだなと感心していた」
「ふぁふぁにひているのれふか」
「言えてないぞ」
 くすくすと笑みを零し、そして美味いか、と改めて聞く。彼女はじと目で口を動かしながら、数秒を置いて、観念したかのようにこくりと大きく頷いた。
「そうか」
 おもむろに手を伸ばし、人差し指ですい、と彼女の口元についた赤インクを浚っていく。
「それは、よかった」
 そのままそれを口元へ持って行き、舌でペロリと舐めとった。ああ、確かにこれは美味かろう。完熟トマトの甘みがソースにまで染み渡っている。時間もあれだし、残されたもう一枚は社に持ち帰って堪能することにするかな。
 満足感のあまりに目を細め、そしてコーヒーカップの持ち手に人差し指と中指を差し入れそのままゆっくりと持ち上げた。

 本当に何の変哲もない、ただそれだけの行為のはずだった。
 はずだった、のに。

 突如彼女は、手の中にあった残り半分程度の大きさのあるサンドを一気に口の中へと詰め込んだ。直後、それを正しく喉に詰まらせて、指先が何か水分のようなものを探し始める。
 俺は、何故彼女がそのような行動に至ったのか皆目見当がつかず、しかしそれを聞こうにもそのような余裕が一切見られない彼女に、まずはこの状況を打破しようと、己の手にあったコーヒーカップを差し出した。
 大丈夫、淹れられたコーヒーの温度は十分に冷めている。彼女はそれを受け取ると、忝い、とでもいうようにこくりと頷いて、そのまま中身を確認することもなく、ぐいと勢いよく飲み下した。

 数秒して、ゆっくりと持ち上げられたカップが下げられる。音を立てずに、静かに机の上へ戻された。
 左手のひらが彼女の口元を覆い隠している。心なしか眉間には皺が、寄せられていた。
「……落ち着いたか?」
 天使がこちらへ舞い降りるよりも先に、とりあえずそう問えば、彼女は口を開くことなくただおもむろに頷いた。
 しかし、だったらなぜ、そうも苦い顔をしているのだ。これまでに様々な顔を見てきたが、未だかつて、そのような表情を見たことがない。いや、そういえば前に、近しいものは見たことがあったような気がする。そう、あれはたしか、彼女と海鮮料理やへ赴いた時のこと……。
 ……ああもしかして、とそんな予感が頭を過ぎる。そしてそれは、きっと正しいに違いない。最初の謎については、未だ解明ならぬままであるが、しかしこちらの謎については、さぁ、これから容易く紐解いて見せようか。
 勝利を確信するあまり、ついつい口元に笑みが浮かんでしまう。彼女はそれに気が付いたのか、警戒するような目つきで俺を見た。
「すまない、お嬢さん」
 たまたま傍を通りがかった店員を呼び止める。
 用件はただ一つ。ブラックコーヒーの御代わりと、そして、あるテイストを加えたコーヒーを。
 その内容を耳にするなり、彼女は口元に添えた手を下ろし、白い頬を薄紅色に染め上げる。オーナーの手により速やかに運ばれてきたのは、俺の所望したコーヒーと、もう一つ、甘い香りを漂わすそれ。ご丁寧に、愛らしい鬣のついた仔猫の模様が描かれている。
 彼女は俺と、そしてその模様の入った飲み物を交互に見やる。どうぞ? と促せば、彼女は先ほどよりも更に赤く赤く染め上げて、
「あ……りがとう、ございます……」
 と、沸き立つ湯気でその表情を隠す様にカップを持ち上げて、仔猫の頬に口づけを落とした。

 *

 ポン、と戒めの解除を許す機械音が、機内に響き渡る。すると途端にそこかしこから、金属の擦れるような音が聞こえてきた。
 こちらも例に漏れず、まずは自分の物を解除する。戒めが解かれるやいなや、自由の身となったこの身体を隣に座る奥方へと向かわせて、その腰元にある戒めへと手を伸ばす。ガチャリ、と同様に錠を外せば、これでやっと自由ね、と彼女は綺麗に微笑んだ。
 その直後、すぐ真横に長い影が一つ、立ち上る。
「コーヒーは如何ですか」
 背の高い、見目麗しい男性の客室乗務員だ。国内線では未だ男性のそういった姿を目にしたことはなかったが、そういえば国際線では当たり前にいると聞いていた。ちらりと彼女を見、ふむ、と思案を巡らせる。
 普段であれば、私たちはファーストクラスを用い、このように一般客に混ざって飛行機を使うことは滅多にない。しかし今回は、彼女がどうしてもと願いを口にした為に、このような方法で彼の元へと赴く形と相成った。
 であるから、これまでならばティーソーサーに予めカップが乗せられた形で運ばれてくるところを、彼は右手にポットを、左手に紙コップを持ち、にこやかに微笑みかけてくる。
 さて、彼女は今や窓の外に夢中である。これは、そう早くに眠りにつくなどということはなさそうだ。それに、コーヒーは彼女の好物。いただいたところで、機嫌を損ねるようなことにはならないだろう。
「では、ブラックを二つ、お願いします」
「かしこまりました」
 彼女がブラック派である、という事実に、驚かれたのではないだろうか。私も当初そうであると知った時には、えらく驚いたものだ。彼女がブラックを好む理由としては、主人である切嗣がそうだからであるということ以外に他ならない、と私は思う。
 乗務員の手が持つポットから、とくとくとく、と心地よい音を立てて、コップの中へ黒い液体が注がれる。香ばしい匂いが立ち上ると、あら、と奥方は窓の外からこちらへ視線を戻した。嬉しそうなその表情を見たところによると、どうやら私の判断は正解だったらしい。
 熱いのでお気を付けください、という言葉を添えて、私の手へと受け渡されたそれを、どうぞ、と今度は奥方の手の中へ移動させた。彼は速やかに、もう二つ目を注ぎ入れるべく、ポットの口を紙コップに近づける。
 彼女は、しばらく空気と共に揺れるコーヒーの水面を見つめ、そしてふと思い立ったように顔を上げた。
「ねぇ、あなた」
 ちょうど、注がれ終えたコップを差し出そうと、また受け取ろうとした彼と私の注目が彼女へ向かう。
「ちょっとお願いがあるのだけど……」
 と、首を傾げて紡がれたそのお願いの内容に、私は目を見開いた。
 その言葉を受けた彼は、目を細めて微笑んで、
「承知いたしました」
 と、カートの中から二種類のある物を二つずつ探り出し、丁寧に彼女の手のひらへと落としていった。

「……珍しいですね」
「あら、そうかしら?」
 さらさらと透明の粒子を流し込み、ぱきり、と音を立てて、白色の液体を黒の泉へ注ぎ入れる。水面でそれは円心状の模様を描き、みるみるうちに溶け消えて、その色を変えた。それは、その味をも変えさせる。苦みを持つ味から、甘みを持つ味へ。
 彼女は薄桃色の唇にコップをあてがい、こくり、と一口だけ飲んだ。私は自分の手の中にあるそれを未だ飲むことなく、ただただ彼女の様子を伺う。
 口を離し、はぁ、と甘やかな吐息を吐き出して彼女は、なるほどね、と小さく頷く。いったい何がです? と、そう問いかけようとしたところで、彼女はくるりと顔をこちらへ向け、にっこりと微笑んだ。
「ねぇ、舞弥さん」
「……はい」
「舞弥さんさえよければなんだけど、これとそのコーヒー、交換してもらえないかしら」
「は?」
「やっぱり、ブラックが飲みたくなっちゃった」
 ね、お願い! と、可愛らしい笑顔はそのままで、ずいとコップを突き出してくる。
 私は彼女の手にあるそれと己の手にあるそれを見比べて、そしてもう一度彼女の顔を見る。

 しまった。いつどこでかまでは分からないが、彼女には知られてしまっていたのだ。

「ね、いいでしょう?」
 彼女は策士だ、まんまとしてやられた。このままでは私が、得意ではないのに彼女に合わせてそれを選ぶということを知っていたからこそ、このような策に出たのだ。
 異論は特に、見当たらない。その提案を却下する術を、私は持たない。
 少し先に座る客の横で、先ほどの彼がこちらを見て微笑んだ、ような気がした。
「……承知、しました」
 どうぞ、とため息交じりにそれを差し出した。有難う、そう口にして彼女の細く白い指先は、私の手から拾い上げ、そしてそれを押し付ける。

 彼女の手から受け取ったそのコーヒーは、甘い甘い、私の好むミルクの香りがした。



熱めの
ブラックコーヒーを、
ミルクと砂糖は
たっぷりで









舞弥×アイリ×舞弥要素を織り交ぜて。こ、このお二人が、すき...!!
meg (2012年12月25日 13:50)
カテゴリ:

Mail Form

もしお気づきの点やご感想などありましたら、
mellowrism☆gmail.com(☆=@)
までよろしくお願いいたします。

Copyright © 2008-2012 Meg. All rights reserved.