schema
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「――――」
 名残惜しげにそれから離れ、はぁ、と熱のこもった吐息を零す。僅かに残った温度を確かめたくて、自身の指でそっと撫でた。
 顔を上げたその先に、俺と同じく指先で唇に触れる彼女がいるはずだ。そして見つめる視線に気が付くと、上目使いで視線を返し、恥じらいながら微笑み返す。
 いつまでたっても初々しさを忘れぬこの少女。俺にとっての幸せの時間だ、もはやそのやり取りは、恒例と化していた。
「……?」
 化していた、はずなのだが。
 期待を込めて顔を上げる。しかし、当の本人は唇に指先を当てたまま、無表情で物思いにふけっていた。いや、表情がないわけではない。薄い眉は逆八の字に吊り上がり、眉間には皺が寄っている。
「……あ、の」
「…………」
「その……。セイ、バー?」
「…………」
 笑顔を返すどころか、こちらの呼びかけにも反応しない。彼女は一言も発することなく、ただただ顔を伏せ、目すら合わせようとしなかった。

 ――ああ、訂正しよう。
 彼女は怒っている。彼女はあからさまに、機嫌を損ねている。

 いったいどうしたというのだ。まさか先ほどの口づけが、彼女の気に障ったとでもいうのだろうか。……もしや、あれか。普段に比べ、舌を深く挿し入れ過ぎたのか。それともなんだ、吸い上げが少しばかり過ぎたのか。
 しかし、それを罪だと言うのなら、彼女にだって非が在ろう。何故なら本日彼女の唇は、普段のそれに比べ、格段に甘かった。紅を引かずとも薄紅色に色づくそれは、まるで桃の果実のよう。齧れば途端に果汁を溢れさせ、俺の口内を、身体中をその甘みで満たしてゆく。まるで麻薬だ。俺の理性を利かなくさせる、彼女のみ持ち得る魔性の秘薬。故に、俺に何度でも噛みつかせるには十分すぎる理由となった。
 だから、あれは不可抗力。あのような強制力に、いったい誰が抗えよう。
 ……などという訴えは彼女に通用しない。口にしたが最悪、彼女の必殺《エクスカリバー》を持って屠られる可能性が大いにある。
 これは、あれだ。降参だ。何だかんだと言い訳を挙げはしたが、結局のところ非があるのは俺の方。その原因すら思い浮かばぬ俺の、不徳の致すところである。
「……セイバー」
 もう一度、彼女の名を呼ぶ。相変わらず彼女は反応一つ返さず、顔も上げようとしない。
 その様子が俺の不安を掻き立てる。すっと右手を差し出して、赤みを帯びた頬に触れてみた。特に拒絶を返されることはなく、ほう、と安堵の息を吐く。その場所だけは、相変わらず定例に逆らうことなく熱を帯び、緊張に揺れる心を僅かに解させた。
「俺に非があるのなら、潔く詫びるとしよう。だから、」

 だから、せめて。
 その理由を、俺に教えてはくれないか ――。

 長い金色の睫毛が揺れる。まずはじろりと俺を見て、そしてたっぷりと数秒を置いた後、「はあぁ、」と口から盛大なため息を吐き出した。

 ごくり、と大げさに喉が鳴る。ついにその唇が動き出す。
 果たして告げられる罪状は俺にとっての生か死か、さぁ如何に――。

「――――……たばこ……」

「…………は」
 彼女の口から飛び出した意外な単語に、思わず間抜けな返しをしてしまう。鳩が豆鉄砲を食らうとは、まさにこのこと。
「煙草……?」
「あ、味が、その……」
「……味」
 いったい何に恥じらうことがあるのだろう。彼女の顔は、煮え湯にくべられた蛸など比べ物にならぬほど、赤く赤く染め上げられていた。
 その様子に俺は、ひたすら首を傾げる。
 煙草。
 味。
「…………」
「…………」
 ……ええと、彼女は何か、口寂しいとでも言うのだろうか。しかし、彼女と知り合ってからこれまでの間、彼女がそのような理由で煙草を吸う姿など目にしたことがない。むしろ、彼女は煙草を嫌う人種であったと思うのだが、それは俺の思い違いということか。
 思考を巡らすべく外した視線を、再び彼女の元へ帰す。彼女はというと、しばらく視線を左右へ泳がせて、それでも未だ的を得ない俺のため、咳払いを落とし赤いままの頬を引締め俺を睨みつけた。
「ですから……っ!」
 今一度、彼女の唇が開かれる。そして――――、

「あ……貴方の口づけから、煙草の味が、したのです……っ!」

 二度目の衝撃。周囲は無音となり、ついでに俺の視界も色を失う。
 彼女の口からは、それ以上のことは語られない。が、俺に向けられた眼差しは未だ雄弁に物を語っていた。

 一体これは、どういうことかと。
 事の次第によっては叩き斬ると。
 言い逃れは無駄であると。
 口を割るまで絶対に、絶対に許さない、と。

 立ったまま、目を開けたまま気絶している場合ではない。
 ――煙草。俺の口づけから、煙草の味。
 搭載された記憶装置が、オーバーヒートしかねない速さで逆回転を始める。彼女から注がれる視線が負荷となり、履歴の洗い出しに若干の時間を要す。が、しかし該当の履歴は大変あっけなく発掘された。

 そうだった。確かにそのようなことがあった。
 何故、今の今まで"煙草"という唯一無二の単語から、そのことを思い返せなかったのか。我ながら、理解に苦しむ思いである。

 それは、本日彼女と顔を合わせるよりも少し前。今より約二時間ほど前にまで話は遡る。
 俺はカフェでの就業時間を終え、タイムカードを切り、従業員室への扉を開けた。その先では俺と同時上がりとなるはずの彼が、さっさと上がり作業を終え、とうの昔にタイムカードを切り一人寛いでいる。
「いよぉ、お疲れさん。……ったく、死人みてぇな面《ツラ》してんじゃねぇよ」
 口に咥えた煙草を、右手人差し指と中指の間に挟みこみ、口から白い煙を吐き出した。テーブルの上には白地に赤い丸の描かれた箱が一つ、粗雑に置かれている。中身は空だった。
「……面目次第もありません。今日はもう上がったので大丈夫かと」
「ははーん……。ってこたぁ、あれだろ。オンナか。贅沢ぬかしやがって」
「可能であれば、是が非にも代わっていただきたいところです」
「断る。オレは、オンナは選り好みする性質なんでな」
 もう一度煙草に口を付け、吸う。
 まぁ座れ。
 そう顎でしゃくり、壁に向かって吐いた後、トントン、と煙草の灰を灰皿へ落とした。二本の指はそれから離れ、先から流れる煙は細く長く、天へ向かって伸びてゆく。
「私とて、そのつもりですが」
 むしろ、そうと決めたその人以外は必要ない。
 そう告げると彼は、それはそれでつまんねぇ人生になるぜ? と、笑った。
 ジャケットの内側から、綺麗にシュリンクされた箱を、あくまで自然に取り出した。柄は、すでに置かれたそれと同じ物。爪を立てて器用に剥がし、抜け殻は後ろのごみ箱に放り込む。中から一本取り出して、空き箱であったそれの中に挿し入れた。
「――――、ですか」
「あ?」
「煙草とは美味しいものなのですか、御子殿」
 百害あって一利なし。そう言いながらエミヤ殿は、しょっちゅうこの御子殿の煙草を取り上げていた。その都度彼はこうして新しい獲物を買い直し、懲りずに吸い続けているのだが。
「……んー、別に美味かねぇよ」
「では、なぜ」
「吸い続けんのかって? んなもん、聞くだけ野暮だな」
 野暮。繰り返すと彼は、そうさ、と右手でライターを宙へ送り出した。五〇センチほど持ちあがったそれは、重力に抗いきれず、正しく地上へ向けて落下を始める。発射地点とほぼ同等の高さまで落ちた、ところで彼は、まるで奪うように右手で横から浚った。
「ああ、野暮だ。……いいか。この後オレは、あの性質の悪い連中の相手をせにゃならん。体力をつかうだけならまだいい。が、ありゃあ精神的にも苦痛だ。こう、根こそぎ一気に持って行きやがる。あの猛攻に耐え抜くだけの覚悟を決めなきゃなんねぇ。その精神統一に、こいつが一役買ってるってわけだ」
「はぁ……」
 灰皿のそれと空箱に入れられたそれには目もくれず、開封したばかりの箱から新たに一本取り出した。口に咥え、ライターで火を点ける。腹で大きく息を吸い、真正面に座る俺の顔に当たらぬよう煙を吐いた。
「この白い煙と一緒にな。憂鬱な気分も少しは消えて、楽になるってもんだ」
 気合い注入薬だな、と彼は笑う。
「……そういうものですか」
「そういうもんだ。なんなら一本試しに吸ってみるか? 大体な、頼りきりはよくねぇぞ。少しは自分で消化できねぇと、ゆくゆく破綻する可能性だってある」
 さらりと彼の口から出た言葉。それがいったい何を示唆しているのかは、確かめるまでもない。
 この通り、俺はある呪いに侵されている。自分の力ではもはやどうすることも出来ない。抗いようのない呪いだ。
 ゆらりと視線を煙草に向ける。灰皿へ置き去りにされた、余命いくばくもない煙草。長く伸びた筒状の灰が、濁った海へと消えてゆく。
 俺もかつてはそこにいた。掬い上げてくれたのは、彼女だった。
 顔を合わせ、言葉を交わし、剣技を競い……。……手を重ね、そしてこのような関係となった時。頼ってくれてよい。大船に乗ったつもりでいるがよい。と、彼女はそう口にした。
 いやいや、俺とて男だ。いくらなんでも女性のお前に頼ってばかりはいられない。第一、紛れもなく少女であるその小さな身体へ預けるには、この身体は些か重すぎる。
 だから、俺が疲れ果てたその時に。そっと、手を差し出してくれるだけでいい。その温かい手のひらに、触れさせてくれるだけでいい。
 さすれば俺は、十二分に救われる――――。
 これまでの間、ずっとそう言い聞かせてきた。
 都度、それだけでは不満だ、とばかりに口を尖らせる彼女へと。そして、それを口にしているはずの、自分にも。
 しかし、結局のところどうだろう。何だかんだと理由をつけて、俺は寄りかかりすぎてはいないだろうか。そっと手に触れるどころか、手首を掴み、手繰り寄せ、胸の内に閉じ込め離さない。離したくない、なんて。
「…………」
 おっ、と意外そうに双眸を丸める彼がいる。
 なぜそこでそのような顔をするのです。そもそも、勧めたのは貴方でしょうに。
 若干湿り気を帯びたそこに、口を付ける。そのまま吸っとけよと口にして、彼はニンマリ笑んで火を点けた。
 ストローを吸うつもりで吸ってみろ。口までじゃなく、肺の奥までふかーく吸い込め。ああ、もちろん最初は苦しい。だがそこは我慢だ。ほれ、吸って。もっと吸って。そのまま奥まで押し込んで……。
「――っ! ゲホッ、ゲホゲホゲホ……ッ」
 ギブアップ。余りの苦しさに、大げさなくらいに咳き込んだ。危ねぇなぁと、露ほどにも思っていない口調で俺の指から煙草を奪い取り、海の底へと押し付ける。不出来な主のため、哀れにも役目を全う出来なかったそれは、ジュウジュウと音を立てて息絶えた。最期に漏らした吐息は俺の顔を霞めゆき、目尻に涙を浮かばせる。
「どうだ、初めての煙草の味は」
 どうもこうもない。味など苦しさの前に消え去った。ケラケラと笑いながら背中をさする御子殿に、「楽しそうですね……」と恨めしげに呟けば、「当たり前じゃねえか」とますます声を立てられた。
「まぁ、初めはみんなそんなもんだ。これがのちのち慣れてくっと、オレらに安らぎを与えてくれるモンになる。そうなりゃもう、どうしたって手放せないものに……」
「――――だから、それはただの気休めだと言っている」
 もう一つ。ジュワーー、と先ほどよりも勢いのある音が耳に届く。
 両目を擦り息を整え顔を上げると、その先には髪の色よりも真っ青に顔を染めた御子殿と、灰皿に伸びた褐色の手。
 口に咥えられていたはずの煙草は、ない。
「貴様、また私に隠れて吸っていたな」
 その双眸は、こちらから約五〇センチメートル先と、そう遠くない場所にあるはずなのに、限りなく遠く、また限りなく近い。それも、真上から直角に注がれているように思えるほどの威圧感。黒曜石の鋭い輝きに、紅玉のそれも霞んでしまう。
「エミヤ殿……! その、表は……」
「ライダーに任せてきた。もうすぐ夜の部が始まるのでね。それに備え、伝票書きをすませてしまおうと思ったまでだ」
「そ、そうですか……」

 申し訳ありません、御子殿。どうやら私はここまでのようです。

「――何処へ行く」
 目に見えぬ矢を放ち、逃亡者の影を床、そして壁へと縫い付ける。
 彼は、隙間を縫って裏口へ回ろうとしていた。裏のゴミ捨て場を経て駐車場に出、そこから真直ぐ教会へ向かえば彼の勝ちである。
 しかし、そうは問屋が卸さない。いかに仕切り直しの能力を保有していようと相手が悪い。しかも彼は心眼保持者。一度掴んだ勝機は何があろうと手放さない。
「クー=フーリン。以前、貴様に伝えたことを忘れたか」
「……嬢ちゃんに抱きつくなっつー誓いなら、破った覚えはねぇがな」
「当たり前だ。それが破られていたのなら、今頃貴様は消し炭と化している」
 その間にも彼はつかつかと御子殿に歩み寄る。普段ならば特別意に介したことのない足音が、やけに今日は耳を衝く。それは恐らく同じであろう彼に至っては、毛穴という毛穴から、汗という汗を湯水のごとく流している模様。
「さて、そうだな……。伝えたとおりのことはするとして」
 ピタリ、と止まる。至近距離どころか、御子殿の顔はエミヤ殿の顔から目と鼻の先。顎はしっかりその力強い指で固定され、背けることを許さない。
「残業……などよりも、"彼ら"に事情を話した方が、貴様の為にもなる、か……」
「!」
 なんとご無体な。御子殿に代わり、俺が顔を背けてしまう。
 "彼ら"とは、今この世で最も彼が忌むものである。こうなってはもはや、逃げ場なし。いや、とっくの昔に逃げ場などありはしないのだが、それでもあったかもしれない僅かな希望すら見いだせない。

 ――ここに、勝負は決した。
 結果的に、御子殿は店がアイドリング状態となるこの時間内に、夜の部に用いる果物や銀食器の全てを補充。皿洗いと台拭きの消毒、清掃。足りない備品があればその買い出し。そして最後に、アルバイトを終えたバゼット殿をお出迎え。とにかくこれらが架せられることとなった。
 最後の項目が腑に落ちないなどと彼はぼやいていたが、それは恐らく、エミヤ殿、そして凛殿によるご配慮だろう。何故なら彼女の傍らには、常に"災厄"のうちの一柱が佇んでいる。出来るものなら、少しの時間でも彼から離れていたいという彼が、そんな彼女の元へ行こうとしないのは無理もない。彼女もそのことを理解しているのだろう、偶然に身を任せ、会いに来いなど口にしたことがないそうだ。
 が、だからといって、寂しさを覆い隠せるほど彼女は強くない。特に、妙に目聡いこの二人を前にしては、為す総べもなかろう。
 だから、一計を講じた。彼はきっと、この戒めを守らない。守らないからこそ、きっと上手くいくのだと。
 御子殿のお気持ちもわかる。が、しかし、騎士は女性を悲しませるなどあってはならぬこと。最後の罰は、きっとバゼット殿の寂しいお心を温めよう。御子殿も、彼女の顔を目にすれば、きっとお二人のお心に気が付くはずだ。
 口に出すことはなく、しかし見事であるという惜しみない賞賛を視線で投げかける。すると彼は、全ては凛の考えたこと、私は何も関与していない――などど濁した上で、
「まったく……。君もこの後セイバーと約束があるのだろう。くだらんことに手を出さず、さっさと行きたまえ」
 と、しっしと右手を払ったのであった。

 ――回想は、ここまで。その後俺は、彼の言葉に倣い、そして御子殿から送られる忌々しいといった視線を背中に浴びながら、その場を逃げるように立ち去った。
 いや、逃げたわけでは断じてない。そもそも、逃げたという表現は誤っている。
 確かにアレを吸いはした。吸いはした、が、結果的に成し得なかった。
 エミヤ殿からは、九割九分九厘が御子殿に責任がある。であるから、今回は不問に処すと言い渡された。
「…………」
 しかし、こうしてしでかしたことは必ず己の身に返ってくる。それをまさに今、実感しているわけで。
「……セイバー」
「…………」
「その、言い訳をするつもりはない。お前が煙草を嫌っているという事実も心得ている」
「…………」
「つまり、魔が差したのだ。御子殿が吸われているお姿を目の前にして、興をそそられつい俺もと手を出してしまい……」
「……そうですか、クー=フーリンめが……」
 ようやく口をきいてくれた。……と、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。己の失言に気が付き息を飲む。
「! あ、いや、違う! 御子殿には罪はなく、ただ俺が……」
 これ以上彼に罪を被せてはならない。訂正すべく慌てて口を挟むが、時すでに遅し。
「庇い立ては無用です、ランサー」
 にっこりと、本日一番の微笑みを見せる彼女。俺が待ち望んだそれを手に入れたはずなのに、何故か背筋を嫌な汗が伝って止まない。
 周囲の風が渦を巻く。中心にそびえ立つのはもちろん彼女。ごうごうと音を立て、彼女の柔らかい金糸を舞い上げる。

「目には目を、歯には歯を。彼には相応の罰を、受けていただく!」

(――それは使い方を誤っている! それに、御子殿はすでに罰を受けているのだぞ、セイバー!)
 口から這い出た言葉たちは、全て風に絡みとられ宙を舞い、彼女の耳に届くことなく消えてゆく。
 一度ならず二度までも。俺は、御子殿をお守りすること叶わぬのだろうか。特に、今度の件に関してのみ言えば、御子殿にまるで罪はない。罪に問われるべきは俺だけで、罰せられるべきも俺一人。
 ああ、いったいどうすれば。約束するまでもなく得ている勝利をそのままに、思いとどまってくれるだろう――――。

「……ですが、その前に」
 落とされた言葉と共に、風は凪ぐ。空に舞った埃は地上へ降り、彼女の髪も、元の通りに垂れ下がる。
「……?」
 無意識に顔を庇っていた両腕を下げた。少し空いた距離が、また詰められる。彼女の細い両手が持ち上げられ、その手のひらは俺の両頬を包み込む。
「ディルムッド。貴方の消毒を、せねばなりません」
 下へ下へと強く引かれる。抗うことは許されず、いつしか身体はくの字に曲がり、顔は限りなく彼女のそれに近づいた。愛らしく跳ねた毛束が、鼻先をくすぐる。
「しょう、どく?」
「はい、消毒です。さぁ口を」

 寄越しなさい――。

 次の瞬間には、もう甘味という甘味、極上の砂糖菓子に全てを奪われていた。
 それまでの勢いは何処へやら、恐る恐る重ねられた柔らかい唇。躊躇いがちに差し入れられた彼女の舌は、まず俺のそれを求めさ迷い、捉え、先端を、表を裏を、吸い尽くす。そうして今度は歯列をなぞり、一つ、二つ、三つと位置を変え、最後に苦しげな吐息を僅かに空いた隙間から吐き出した。
 いったん唇と唇が離れる。が、繋がれた糸が断ち切られるその前に、再び第二波が俺を襲う。
「ン……」
 苦しい、と先に漏らしたのは俺だった。
 これまでに、彼女のこのような情熱的な姿を目にしたことがあっただろうか。薄く瞼を開け盗み見れば、ぎゅっと瞼を固く閉じ、しかし必死の面持ちで俺の全てを吸い尽くさんとする彼女がいる。
 その表情が、俺の内側へ鑢《やすり》をかける。余分な贅肉を削ぎ落とし、奥深くに仕舞われていた欲望を明るみへとさらけ出す。
 腕が伸びた。未だ、俺の口内を必死な思いで弄ぶ、彼女の頭の裏側へ。
 そのままぐいと引き寄せた。
 ただされるがままだったこの舌が、確かな力を持つ瞬間。
 奥へ。
 奥へ、奥へ、奥へ。
 彼女のさらに、喉奥へ。
「……はっ、」
 もう無理だ、とばかりにどんと胸板を叩かれる。その衝撃で再び離れる口と口。酸素を得ようと、彼女の小さな胸は上下を繰り返す。俺もまた、ひゅうと口から息を吸い、飲み込んだ。
 ついつい笑みがこぼれる。まさか、彼女とこのような方法で根比べをすることになろうとは。
「仕掛けた側が敗北を喫すとは、無様だぞセイバー」
「…………っ」
 ぐいと唇を拭い、フンと鼻を鳴らす。あくまで強気に、別に負けを認めたわけではないとでも言うように。
 ああ、その挑戦的な眼差しは、大変俺の好みである。が、こういつまでも惚れ惚れしているわけにはいくまい。負けず嫌いの彼女のことだ、放っておけばまた手を伸ばし、それこそ馬乗りになって俺を穫りに来かねん。
 まぁ、その時は容赦なく返り討ちにするまでだが。
「さて、説明してもらおうか」
「……説明?」
 予想の通り、この身に伸ばされかけた手が止まる。
「フフン、聡明な騎士王のこと。何も考えなしにこのような事に及んだわけではあるまい。……まあ、俺にとっては降って沸いた僥倖ではあるのだがな」
「…………」
「それとも何か。この俺の色に、眩んだとでも言うつもりか?」
 茶化すように口にする。と、それまで固かった彼女の表情に僅かな変化が見られた。吊られた眉は、その意味を変えている。
「……貴方のように?」
 ん? と一瞬言葉に詰まる。
 俺と同様、まるで悪戯をする子供のような眼差しで。まさかそう来るとは、予想だにしていなかった。……まぁ、隠すようなことでもない。ここは素直に返すとしよう。
「無論だ。俺はお前の色を前にして、耐え抜く自信など露ほども見当たらん」
「フフッ、世迷い言を……」
 これが世迷い言でないことは、先のアレで十分に証明したつもりだが。
 くつくつとひと通り笑いを噛み殺したその後で。再び頬へ、彼女の両手が添えられる。その表情は自信に満ち溢れ、非常に晴れやかなものだった。
「私はこう告げたはずです、ランサー。貴方の消毒をする、と」
「……消毒」
「ええ、消毒を」
 擦り寄せ合う頬と頬。少女の肌は、まるで天鵞絨を滴り落ちる真珠のよう。乳白色で、滑らかで。光が射すと、わずかに桃色へ彩を変える。
「ディルムッド、私はその味が嫌いです」
 そして、啄むだけの口づけを。彼女の方から贈られる。
「ディルムッド。私は、いつもの貴方が良い」
 二度、三度、四度、五度、六度。ただただ飽くことなく繰り返される。七度目が行われるその前に、ちらりと視線を彼女に送れば、同じようにちらりと寄越す彼女とかち合った。ふふ、と同時に噴き出して、離そう……としたところをつなぎ止める。
「ならばこのまま、消毒を。どうもお前の力を借りずして、元に戻す術はないらしい」
 すると彼女はぱちくりと、瞬きを数回繰り返し。そして、上目使いで視線を返し、恥じらいながら微笑み返す。
「はい、もちろんです、お任せを!」
 ああ、そうそれだ。まさにそれを、今の今まで俺は渇望していた。
 身体を寄せて、再度、唇と唇の距離を縮めあう。あともう少しで、今一度ひとつになる――
「……ただ、その、出来れば」
 ――その前に。突然の据え膳に、危うくこちらから行くところを、すんでのところで踏みとどまる。
「うん……?」
「出来れば、そう……。……あともう少しだけ、手加減してくださると、嬉しい」
「…………」
 目の前には、射し込む夕日のそれよりも濃い、赤。
 そろそろ御子殿が、架せられた最後の罰をこなす頃。驚いて、そして感動に胸を震わす彼女の姿が目に浮かぶ。夜の部を開始したカフェでは恐らく、エミヤ殿の大切な少女とそのご友人たちが我先にと門をくぐる頃。ことの顛末を耳にして、少女は極上の微笑みを見せるに違いない。
「――フッ」
 よくよく考えてみれば皆が皆、今日という日をアレに振り回された。
「……なんです」
「いや……」
 苦しむ者あり、怯える者あり、呆れる者あり。しかし最終的に、それは等しく皆に幸福をもたらした。これがのちのち慣れてくっと、オレらに安らぎを与えてくれるモンになる――御子殿のお言葉は、あながち気休めだけというわけではないのかもしれない。

 だがそれでも、俺には確かに言えることがある。
 それは、もうずっとこの先、永遠に至る未来まで。いったい何が起きようと、俺はそれを必要としないということ。

 ――ディルムッド。私は、いつもの貴方が良い

「――――心得た」
 
 常用する麻薬はひとつでいい。
 お前さえ共にあるならば、降りかかるどんな受難も乗り越えて、きっとこの身一つで天にすら昇れるだろう。

 未遠川を走る船の煙突から、西の空へ向かって白い煙が立ち上る。
 途切れることを知らず、風に乗って流れゆき、その軌跡をいつまでも……。そう、いつまでも飽きることなく描き続けた。



煙 -Enne-









槍剣、W槍、弓+槍、ランバゼ、弓凛と、もう嗜好をごっちゃごちゃに混ぜたもの。ちなみに煙(えん)は縁とかけてたり。そのうちそれぞれの後日談とか書きたいですねー!
meg (2013年1月21日 11:36)
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