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「――――ねぇ士郎。あんた、幸せ?」
 本棚の前に二人は並んでいた。なんでも、凛の手には負えない高い位置にある本を、自身よりも十数センチメートルは背の高い士郎に取ってもらおうという算段らしい。かくして彼女の思惑通り、まさに彼は今手を伸ばし、爪先をあげ、少しずつ引き出し始めたところだった。
 そんな時、唐突に声をかけられたのだ。まるで他愛もない世間話を始めるかのような口ぶりで。
 一瞬止めた手を再び動かし、綺麗に並びたてられた列の中から一冊を抜き取った。凛の女性らしい手のひらへ、目的の魔術書を置くと同時に士郎は何故? と返す。すると凛は、気を悪くすることもなく、むしろその反応が正解であるといったような顔つきで、首を横に振った。
「ううん、ごめん。なんでもないのよ、ちょっと聞きたかっただけ」
「…………」
 その顔を士郎は知っていた。数年前に開催された聖杯戦争中、幾度となく目にしたことがあったから。戦争が終わり高校を卒業し、ロンドンへ渡って時計塔に進学し忙しい毎日を送っていたここ数年は、そんな顔を目にする機会はほぼ皆無であったため、少し安心していたのだが。
 士郎は、その顔が好きではない。何故なら凛がその顔を見せる時、必ずと言っていいほど彼女が何かを思い悩んでいる時なのだ。そしてその原因は、ほとんどが士郎自身にある。
 それを彼女は決して口にしない。決して士郎を否定しない。逆に、自分の力不足によるものだと彼女自身を非難する。
「変なこと聞いてごめんなさい。忘れていいわ、それよりも本ありがとう。さ、そろそろお茶にしましょうか」
 そうして彼女は必ずこうして話題を変えようとする。訝しむ士郎の視線を誤魔化す様に。それがまた、士郎にとっては面白くない。長いスカートを翻し、凛はとことことダイニングテーブルへ足を進める。お茶にしよう、と口にしながら席につくのは、士郎が紅茶を淹れる係だからだ。
 上体を少し傾けた拍子に流れ落ちた長い黒髪を後ろへやり、ぱらりと固い表紙を開く。あれに書かれた内容は、あの頃に比べ少しは魔術の技術が向上した士郎でも、また理解することができない。彼が一歩進むたび、彼女は百歩進んでしまう。なかなか縮むことのない距離に苛立つことは多々あるが、しかし彼女は彼がそれを感じた瞬間足を止め振り返り、手を差し出してくれる。ほら、早く来なさいよ、と。待っててあげるから、と。それが嬉しくて仕方がないのだ。
 そして再び士郎も歩き出す。早く彼女に追いつくために。
「……士郎?」
 彼女の先ほどの問いの答えを返すために。
「遠坂」
 士郎を見上げる碧玉の双眸。いつか見た彼女の中に見た海そのもので、とても好きな色だった。赤いナントカと形容されるとおり、遠坂凛と言えば赤といったイメージが定着しているが、この色だってとても似合う。とても彼女らしい色だと士郎は思う。
「俺、遠坂と出会えてよかった」
 思ったままを口にすることは、とても難しい。全てを伝えようとすると、長い上にややこしい。誤解だって与えかねない。
 だから、あくまで簡潔に。衛宮士郎が遠坂凛に抱く感情まるごとを、率直に。

「俺、遠坂と出会えて、本当によかった」

 しばらくの間、彼女にしてはめずらしく口を開け広げたまま士郎を見上げていた。そしてその失態に気が付くや否や今更ながら平静を装おうとする。邪魔とはとくに感じなかった、払う必要のない髪をわざわざ背中に追いやって。
「……そ。うん、ならいいんだけど」
 そのままつん、と顔を背ける。わざわざ誤魔化そうとしなくても、きっと彼は全てを承知の上なのだろうが、そうせずにはいられない。ここが優雅なる魔女、遠坂凛の欠点だ。(いや、欠点だと思っているのは、きっと当の本人くらいのものだろうが。)
 さらに凛は追いうちをかけるように本のページへ視線を戻し、書き連ねられた文字列を追い始める。実際のところ、何一つとして情報は凛の頭の中に入ってきてはいないが、それでも読んでいるのだと思わせることができればそれでよかった。
 しかし、そんな努力も何一つ士郎には届かない。全部わかってるさ――そんな笑顔で彼はうんと頷き、右を向き足を踏み出し彼女の座る椅子の後ろを歩いていった。向かう先はキッチン、二口コンロの前。食器棚から凛のお気に入りのティーカップを取り出して、ただのお湯をポットから注ぎ入れる。とぽとぽとぽ、と部屋中に響く水の音。水面を揺らし、そのままシンクへ引っくり返した。
「俺さ。お前も知っての通り、魔術も剣の腕もまだまだだで頼りない男だけど――」
 カチャン、と密やかに白磁の器が擦れる音がする。漂いはじめたのはダージリンの爽やかな香り。お気に入りのファーストフラッシュ。
「これからもよろしく頼むよ、遠坂」
 ポットとティーカップを二つ乗せたお盆を持って、ゆっくりと凛の元へ戻ってくる。どうぞ、と士郎から手渡されたカップはとても温かい。凛は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で「ありがと、」と呟いた。
 ソーサーからカップを離し、ふぅ、と息をふけば、深い赤色の水面がゆらりと揺れる。凛は思い切って口をつけ、こくりと喉に通した。すっきりとした、しかし味わい深い士郎の味。
「…………」
 いつか飲んだ紅茶と、同じ味。

 ――私を頼む。知っての通り、頼りないヤツだからな。……君が、支えてやってくれ

 凛はつくづく思う。いっつも捻くれてて意地っ張りで上から目線で、正直扱いづらかった。ホント、素直なのは紅茶の味くらい。今はまだ全身が素直の二文字で出来ているこの男が、いつかあんな男になるなんてごめんだわ。
 大きく一つ、これ見よがしにため息を吐く。えぇ? と前方から戸惑う士郎の声。
「しかたないわね……」
 しかたないから見てあげる。しかたないから頼まれてあげる――。
 もう一口紅茶を含み、落とす。身体の内側がぽかぽかと暖かい。まるで、誰かに抱きしめられているようだ。
 顔を上げれば、期待と不安が綯交ぜとなった顔で凝視してくる士郎がいる。ぷっと吹き出し、カップをソーサーへ。テーブルに両肘をつき、両手を顔の前で組み、顎を乗せた。
「私が士郎の面倒を見るのは当たり前。士郎はもう私のモノなんだから、大人しく面倒見られなさいっての」

(だから、あんたも)

「いいこと? “はい”以外の答えなんて、絶対に認めませんから、そのおつもりで」
 口にして、凛はこれまで生きてきた中でも極上の笑顔を貼り付ける。今更嫌だなんて言わせない、口を開く前に黙らせる。そんな圧力をかけるつもりで用意した、はずなのに。
「――そっか、ははっ」
 不意打ちの笑顔は計算づくの笑顔のその何十倍、何百倍と人を黙らす効果がある。
「嬉しいよ、遠さ……凛」
 そして、さらなる魔法をかけられた。
「これからもよろしくな、凛――」

   *

「――――」
 用具室と銘打たれた扉……正しくは、エレベーターに乗り込もうとしたところで、ふいに足を止めるサーヴァントに気が付き身体を反転させた。
「アーチャー、どうしたの?」
「……いや、」
 弓兵《アーチャー》と呼ばれた赤い外套を身に纏う男は、右手をおとがいにやり、瞼を閉じる。しばらく何かを考え込むようなしぐさをして、そして
「なんでもない」
 瞼を開けた。
「どうやら立ちながら夢を見ていたらしい」
「夢? アーチャー、寝てたの? もしかして疲れた?」
「冗談だよ、マスター。英霊は夢など見んからな。疲れもしない」
「……そう?」
 マスターと呼ばれた少女はウェーブのかかった栗色の長い髪を揺らし、小首を傾げる。
 この少女は、何度英霊というモノの性質について言い聞かせても、なかなか理解を示さなかった。むしろ、分かってはいるものの聞かずにはいられないといった印象を抱く。それは彼女が最弱のマスターであるという自覚があるからか、そのことについてサーヴァントであるアーチャーに負い目を感じているからか。
 少女の考えていることはいつだって予測不能だ。戦争が開始されてからすでに四十一日と半日が経過しているというのに、常に傍に付き添っているアーチャーですら未だ少女を掴みきれていない。そもそも、彼女を捉えることのできる者などこの世に存在するのだろうか。もしもいるというのなら……そのうちの人物とは、これより死合う、ある人物なのかもしれない。
 じゃあ、いこっか? と少女はふわりと微笑む。エレベーターの扉の奥で待ち受けるのは、この戦時下において、友とさえ呼ぶことができただろう、青い槍兵《ランサー》を従えた豊かな黒髪を持つ強気な少女。どこか、懐かしい空気をその身に纏う少女。
 再び少女が一歩を踏み出したことを確認して、アーチャーもまた一歩を踏み出した。足を進めるたびに近づくその扉。心に巣食う重みが一つ、二つと増えてゆく。
 こんなことでは勝利を掴めない。命と命を天秤にかけた争いなのだ、これは。彼が負ければ少女も死ぬ。力の強さだけではない、意思と絆が何よりも物を言う世界。なのに、戦う前からこうであっては、勝てる戦も勝ち抜けない。
 今度は気取られぬよう、密かに眉を顰める。いったいどうしたというのだ、私には少女の命の他に、気に留めるべきものなど何も存在しないはず。だというのに、いったい何故……。

 ――あんた、幸せ?

 耳の奥、脳の裏側から懐かしい声が響いた。あの箱の中で待ち受けているだろう少女にとてもよく似た、しかし全く似ていない声。
 あの少女のことは知らない。確かに遠い昔、俺の知らないところで彼女ではない彼女との物語があったかもしれない。が、つまりはどちらにせよ、俺と彼女の間にはなんら繋がりがない、ということだ。
 だがその言葉は、アーチャーの心の臓を鋭く突いてくる。
 幸せ? 俺は、幸せかだと? ……そんなこと、姿なき声の持ち主《お前》に応える義理などなかろうに。
 跳ね除けようと抗うが、しかし意に反して彼の口元は綻ぶ。唇が、答えを口にしたくて仕方がないと叫んでいる。

 ――あんた、幸せ?

「幸か不幸かと問われれば……今この瞬間は、間違いなく幸せなのだろうな」
「?」
 アーチャー? と先を歩いていた少女は再び振り向こうとする。魔術に通じているというわけでもなければ頭脳明晰というわけでもない。運動神経がずば抜けて良いというわけでもなければ、とりたて美人というわけでもない。ありふれた姿かたちの、ほんの少し……いや、度が過ぎるくらいにお人好しな彼のマスター。いつの間にか、この少女を守ることが、アーチャーにとっての至上の喜びと化していた。
「なんでもないさ」
 真直ぐ少女の身体がこちらを向く前に。肩を抱き、再び前へと押し戻す。
「行こう、マスター。俺たちの絆があれば、こんな茶番すぐに片が付く」
 凛として。俺たちの絆を、君の意思を貫こう。
 男の言葉に少女は柔らかく微笑んだ。あなたが、そう言うのなら……。それ以上、何も口にはしなかった。

 エレベーターの扉が開く。待ち受けるのは、一つの運命。
 懐に仕舞われたまま、存在を忘れられている空の容器がキラリと一瞬瞬いた。



幸福の約束









アーチャー、召喚おめでとう!弓凛おめでとう!!前半は士凛、後半は弓女主、通して弓凛と言い張る。二人に出会えてよかった!大好き!!
meg (2013年2月 1日 01:00)
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