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僕と彼と彼女の秘密



 バサバサバサ、と音を立てて教科書が雪崩を起こした。
 机の上を滑り、滝となって床へ向かい、そしてその滝壺には俺の足が選ばれる。中に分厚い辞書が含まれていなかったのは、不幸中の幸いか。しかしそれらの突撃は、全く持って俺の痛覚を刺激するに至らなかった。目の前を陣取る少年から発せられた口撃の方が、よっぽど痛点を突いてくる。
「なぁお前、もしかしてアレなの?」
 アレ。通常アレとは、対象が余りにも多すぎてそう絞れるものではないのだが。
「……アレとはまさか、アレを指しているのか」
 男子校内でいうアレとなると、対象は途端に絞られる。特に悪い意味で用いられる場合に関しては、まさにソレが頂点に鎮座し、他の追随を許さぬだろう。
「もしお前の言うアレが、僕の言うアレと同じなら、お前にはその自覚があるってことになるけどな」
「…………」
 おもむろに背中を丸め、泉となったそれらに手を伸ばす。一冊、二冊と取り上げて、カバンの中に挿しいれる。平常心、平常心。そう言い聞かせながら、テトリスのように中身の隙間を余すところなく詰めていった。
 最初に断っておくが、俺には全くその気がない。いや、別にそれ自体を否定するつもりはさらさらないが、俺自身のことに関しては断じて違う。
 確かに俺は、これまで恋人などいたことがなく、かつそれは現在進行形で今も続いている。更に言うと、そもそも誰か特定の個人を恋い慕うといった経験をしたことがないのだから、まぁ怪しいと言えば怪しいのだろう。原因について問われるならば、ただ単に、ことそれ関連について良い思い出がないというだけだ。
 そう口にすると、まさにアレ系の男子から絶大な人気を誇る少年は頬を膨らまし、そんなんだから怪しいんだよ、と口を尖らせた。まったく、お前こそただでさえ可愛らしい顔をしているのに、いちいちそのような顔をするから、好意を一身に受けることになるのだ。不本意だと言うのなら、少しは自重した方がよかろう……などと、言ってやるつもりは毛頭ないが。
「じゃあお前、それ以外のことで説明できるっていうのか?」
 納得できないといった顔つきで少年――ウェイバー・ベルベットは、バナナ・オレと書かれた紙パックにストローを突き刺し吸い上げる。俺は立ち上がり、そんな姿を見下ろしながら、椅子に掛けたジャケットを取り上げ袖を通した。
 説明。説明……、か。
「……お前が俺を見るたびに、俺がセイバーを見ているというのはたまたまだ。たまたま、セイバーの行動が目についた」
 説明など、出来るものならとっくの昔にされているだろう。彼がこの学園に転入し、紹介されたその時に。
「そもそもセイバーは、この学園に転入してきたばかりで不馴れの、俺のルームメイトだ。その状態で、気に留めぬ輩などおらんだろう」
 俺ではなく、そう、彼女の口から直接だ。
 さてこれから部活だ、先に失礼する。念入りに蓋をした鞄を手に持ち、動揺を気取られぬようあくまで自然に教室入口まで足を進めた。ウェイバーは、たいして引き止める気がないのだろう、はいはいまた明日と言うように、片手を上げて力なく振る。
 戸を跨ごうとしたところでふと思い立ち、一度停止し反転させた。注がれる視線に気がついたのか、上げた腕はそのままに、ん? と面倒くさそうに顔を上げる。おとがいへ手をやって、少しの間何かを思い出そうとする仕草をして……
「そういえば、ウェイバー。ミスター・アーチボルトより言付けを預かっていた。放課後、論文を返すから化学実験室に来いと」
 口元を隠す手の裏側で、ニヤリ、と笑った。
「――――!」
 予想通りウェイバーは、がたんっ、と大きな音を立てて立ち上がる。中身はほぼ空なのだろうジュースパックは横転し、彼の顔は真っ青に染め上がった。
「ちなみにミスター・アーチボルトは、本日結婚記念日だそうだ」
 黒板の上にかけられた時計を見やる。現在十六時をまわったところ。ちなみに、ホームルームは十五時半に終了した。ミスターの奥方は確か、十七時には家路につくと聞いている。愛妻家である彼のこと、帰り道に花か何かを用意して、奥方が到着する前に準備を終えたいことだろう。
「――そ……ういうことは、」
 机についたウェイバーの両腕はわなわなと震え、次の瞬間、几帳面な彼とは思えぬ荒々しい手つきで鞄の中に教科書を放り込んでいく。ああほら、筆記用具入れのチャックが最後まで閉められていないぞ、消しゴムが零れ落ちたではないか。
「もっと早く言えよ、ばか!」
 堪えきれない笑みを隠すように踵を返し、廊下へ一歩を踏み出した。二、三歩足を進めれば、ばたばたばたと、けたたましく背中から足音が聞こえてくる。掲示板に貼られている"廊下は走るな!"と書かれたポスターの前を、二人同時に駆け抜けた。


 彼が彼女であると知ったのは、つい最近のこと。あちらの性にとってはごく当たり前のことが、こちらの性、ことさらこの環境にあると、とても目につく行為となる。つまりは、そういうことだ。
 だが、俺がその秘密を知ってしまったことを、当の本人は気が付いていないだろう。そのことを俺は口にしなかったし、それを知ってもなお俺の前で自然に振舞うなどという器用な真似を、彼……いや彼女に出来るとは思えない。
 そう、彼は彼女。彼は、女性……。
「ランサー」
 真後ろから突然声を掛けられて、大きく肩を揺らす。恐る恐る振り返れば、同じく目を丸くしてこちらを見上げる彼女……いや、彼――セイバーがいた。
「セイ、バー……」
 目の高さより、三〇センチメートルほど下方にある彼の頭。金色の髪は、窓から射す夕陽の光を浴びて、燦々と輝いている。
「すみません、ランサー。驚かせてしまいましたか」
「――いや、お前に非はない。この場で呆けていた俺が悪い」
 すると彼は首を傾げ、
「フム、貴方が呆けるとは珍しい。先ほどの試合で、思うところでもあったのですか」
 言いながら、手にしたタオルを俺に寄越す。真っ白に漂白された、洗い立てのタオルだった。当たり前だが、そういった雑用をこなす"女子"マネージャーのいない我が部において、この作業は当番制となっていた。嗅いだことのある洗剤の香りが鼻先を掠め、今週は彼が当番だったことを思い出す。
「…………」
 無言で受け取り、こめかみを伝う汗を軽く拭く。彼女の肌も、汗で少しばかり濡れていた。よほど暑かったのだろう、普段は一番上まで上げているジャージのチャックを、鎖骨よりも下まで押し下げている。細い鎖骨だ、押しただけですぐに拉げてしまいそうなほど華奢な作りを持つ身体。
 先では白磁の肌がなだらかに曲線を描き、その頂きに赤い果実を冠しているはずで……。
「どうしましたか、ランサー」
 耳の奥まで響いた彼の声。はたと我に返り、邪念を振り払うようにがしがしとタオルで荒々しく髪を拭いた。が、拭けども拭けども取れやしない。
「ランサー? 些か顔が紅いようですが、まさか熱でもあるのですか?」
 ああいけない。今の俺には、それはまるで逆効果だ。恐らくは額の熱でも測ろうというのだろう。真っ直ぐに差し出されようとする細く華奢な手――
「あ、いや……っ」
 ――から、逃げるように顔を背けた。彼は、わけがわからない、といった風に眉を顰め、手を戻しまた首を傾げる。
「いや、だいじょうぶ、だ……」
 カーテンで顔を覆うようにタオルを頭にかけたまま、両手を下に下ろした。うちの片手を再度引き上げて、更に紅潮しただろう頬を隠す。
「大丈夫だ。おおよそ夕陽に当てられて、熱がこもったのだろう。」
 それでも彼女は納得がいっていないという風で、(そんな顔をつい先ほども見た気はするが、)しばらく俺の顔を不審そうに眺めた後、「まぁ良いでしょう」とため息を吐いた。
「……ランサー、じきに大会です。今体調を崩されては、貴方の管理を任される私の責任となります」
「いや、そんなことは」
「あります。いいですか、私は貴方のルームメイトです。つまり一日のうちで、貴方と最も長い時間を共に過ごし、貴方の最も傍にいるということに他ならない」
「ああ、まぁ……そうだな」
 だからこそ、俺もお前の秘密を知ることとなったのだが。……って、ちょっと待て。なぜそこでずいと身体を乗り出すのだ
「ですから、貴方の不調を見過ごし、あまつさえ敗退を喫すとならば、それは明らかに私の責任となります」
「いや、だから……。その、セイバー、ちか」
「ですから!」
 い、と歯と歯を重ねたところでどんと鈍い振動が脳に伝わる。視線を下ろせば、彼女の握りこぶしが俺の胸を叩いていた。細い手首が袖口から出で、露わとなっている。こぶし自体も、きっとこの俺の手のひらで全てを覆えよう、とても小さく可愛らしい。
「今日は早く寝る事! 試験は先週終わったのです、遅くとも十一時前には寝ていただきます」
 見上げる大きな瞳は上目使い。尖らせた唇は淡い桜色。頬は薄紅色に色づいて、伝う汗は甘い香りを届けてくれる。
「聞こえているのですが、ランサー!」
 更に彼女は爪先立ちをして、顔を近づけてくる。もう目と鼻の先、少し腰を曲げただけで、鼻と鼻が触れ合いそう。
「……ラン、サー?」
 徐々に距離を縮める顔と顔。影は一足先に重なり合って、完全に一つのものと化している。
「ラ、ン……っ、」
 温い吐息が鼻にかかる。飴玉でも舐めたのか、爽やかなマスカットの香りを孕んでいた。人差し指の腹で、ぷっくりと膨らんだ涙袋をひと撫ですれば、びくりと細い肩を揺らし、ぎゅっと瞼を閉じる。未だ胸板に置かれたままの、彼女のこぶしは震えていた。
 もう一度、その場所を撫でた。一文字に閉ざされた唇に、更に力がこめられる。そして、
「――――……ぞ」
「………………え?」
 閉じていた瞼が、恐る恐る開かれた。隙間から覗く翡翠のそれは、眉を得意げに吊り上げて、いつものように微笑む俺の顔を映し出す。
「目の下に睫毛がついているぞ、セイバー」
 今度は零れんばかりに瞼を開け放ち、ぱちぱち、と瞬かせる彼がいた。あまりの呆けた顔に、耐えられず笑みが口から溢れ出る。
「え、……あ」
 必死に笑いを噛み殺し、なおも状況を掴めていない彼のため、ほら、とよく見えるように目の前に差し出してやる。人差し指と親指を擦り合わせれば、くるくると踊る長い睫がひとつ。
「大丈夫だ、ほらもう取れた。目に入ることもないだろう」
 にっこりと微笑みを顔に貼り付けて、体を一歩後ろへ下げた。彼は両手で両目を擦り、あ、ああ、なるほど。なるほどな、と、一人何度も頷いていた。
「ええと……ありがとう、ございます。気が付きませんでした」
「いやなに、当然のことをしたまでだ。お前の最も傍にいる俺だ、これしきのことは当然気がつこう」
「……そう、ですね…………。ええそうですね、当たり前です」
 宙に浮いたままのこぶしをゆるゆると開け広げ、両手のひらで両頬を包み込む。恐らくその下には、俺に負けじと赤く染める肌が隠されているはずだ。何故ならほら、その小さな手のひらでは届かない、耳の先が真っ赤に染め上がっている。そんな様子を目にすると、ああこの胸は、再び甘くて苦い熱を持つ。頬や額にこもる熱とはちがう。そんなありきたりの熱ではなく、そうこれは……。
「セイバー、俺は」
 持ち主の意に反し、自然と唇が紡ぎ出す。俺が今何を口にしようとしているのか、俺自身が知りたいくらいだ。
 彼女を前にすると胸が高鳴る。続く鼓動がとても苦しい。
 溢れるこの気持ちを何と呼ぶ――?
「俺、は……」
 気持ちをこのまま声にのせて、お前に伝えていいだろうか。
 お前の気持ち関係なしに、迸るこの想いをお前に伝えていいのだろうか。
「お前の、ことが――――」
 しかし、二人きりの世界は唐突に幕を閉じる。
 続きを口にしようとした途端。部室の隅に取り付けられたスピーカーが、まるでそれを遮るように、大きな声を発したのだ。
『――一年A組、アーサー・ペンドラゴン。至急、保健室に来るように 』
 流れたのは、ぴんぽんぱんぽーん、という聞きなれた木琴の音と、彼の名を呼ぶ教師の声。言葉は二度繰り返され、締めの音色を持ってブツリと切れた。彼はしばらく呆けたあと、はっと息を飲み部室を見回す。
「エミヤ、先生?」
 まるでその場所にその教師がいるとでもいうように、彼は音の鳴った方向へ顔を向けた。その顔は、何故こんな時に、だとか、助かったのか? などといった複雑な色を映していた。
 そして、それは俺も同様だった。もしかしたら、助かった、という気持ちの方が大きかったかもしれない。あからさまにため息を吐き、やれやれ、と肩をすくませてみせる。
「お前も大変だな、エミヤ先生に気に入られるとは。彼は男色家だと聞いているが、まさかそういう関係ではなかろうな」
「え? あ、いやまさか! 彼とは別に、そのような関係では……!」
「ああ、もちろん知っている。冗談だ、真に受けるなセイバー」
「わ、笑えぬ冗談です……」
 コホン、と咳払いをし、使用済みのタオルを寄越すようにと手を差し出す。いや、これから顔を洗いたいので、部屋に戻って返却すると、丁重に断った。
「行ってこい。あまり待たせては、先生にも失礼だろう」
 ちらりと時計に視線をやる。最終下校時刻まであと一〇分。彼女も同じように視線を走らせ、そうですね、と小さく零した。元々の目的だったのだろう、他の部員がベンチに放りっぱなしにしたタオルをさっさと回収し、ではまた後でと踵を返す。……返しかけて、ピタリと止めた。身体は右に向いたまま、顔だけ返す。
「そういえば先ほど、何か言いかけませんでした?」
 と、問いかけてくる、オレンジ色の夕日を一身に浴びる少女の姿。
 群青色のジャージも金色の髪も、白い肌もまるで全てを包み込むその光景に、つい言葉を失った。呼吸を忘れる。時間が止まりそうになる。
 それに抵抗するように、ゆっくりと首を横に振った。
「なんでもない、忘れてしまった」
 ――そうですか。では、思い出した時にでも。
 告げて手を振って、扉から出てゆく彼の背中を見送った。


「…………」
 彼の気配が完全に周囲から消え去ったその瞬間。背をロッカーの扉に当てつけて、そのままずるずると崩れ落ちる。
 両側に垂れたタオルをそれぞれ両手で鷲掴み、そのまま顔に当てつけた。相変わらず頬は大変な熱を持ったまま、流れる血液が蒸発でもしているかのように、湯気すら立ち上るこの有り様。心臓はドッドッドと、校庭のトラックを十周ほど立ち止まることなく走りきった時よりも、速い速度で波打っていた。
(あぶないところ、だった……)
 本当に俺は、いったい何を言おうとした。顔を覆っても瞼をぎゅっと閉じても、浮かんでくるのは恥じらう少女の顔ばかり。戸惑いがちに、俺の名を呼ぶ声ばかり。

 ――じゃあお前、それ以外のことで説明できるっていうのか?

「……できるわけ、ないだろう……!」
 ああ多分これは、大分取り返しのつかないところまで来てしまっている。
 タオルをはためかせ、熱に湯だった頭に風を送る。しかしそれでは全く持って足りておらず、しまいにはきぃんと冷えたロッカーに頬を貼り付かせ、平常と思われる温度に下がるまで待つこと約数十分。
 最終下校時刻を知らせる鐘が鳴り終えた後も、指ひとつ動かすことなくこうして身体を預けたまま。今夜はとても眠れそうにないなどと、今から安眠の方法を模索し始めたのだった。








ついったーでリクエストを募集したところ、「槍剣で花ざかりパロ」というお題をいただきました。いかがでしょう!どこかで見た展開で申し訳なく…。しかし、ニヤニヤしながら書きました。ちょう楽しかったです。漫画を読み返して、また描いてみたいです。リクエストありがとうございましたー!!
meg (2013年3月 1日 16:25)
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