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 それが目に入った時、ぱっと彼女の姿が浮かんだのだ。
 濃いマゼンダの頭。こげ茶色のスーツを身に着けながら、溢れ出るのは女の性。きりっとした顔つきと、どこか危うさを感じさせる立ち振る舞い。
「――フゥン」
 水色のバケツの中に群れをなして咲いていた。一輪挿しでも結構なボリュームの花を持つそれは、こうしてまとめて目にすると圧巻だ。むしろ、少々煩いくらいである。
「なんだい兄さん、気に入ったのかい?」
 奥の方でパチパチと音を鳴らしながら枝を切る恰幅の良い女性が、顔を上げずに語りかけてきた。この店の店主なのだろう。淡い緑色のエプロンが、ますます親しみやすさを感じさせる。
「ああ……」
 その場に腰を下ろし、顔を近づけてまじまじと見つめた。
「そうかもな」
 漂う香りは、豊かな黒髪をツーサイドアップに結い上げた赤い少女が漂わせるそれとは異なっている。彼女は同類の花から抽出した香水を使っていると耳にしたのだが、つまりこれとは別物なのだろう。ひとくくりに呼んでしまっては、瞬時に平手か呪いが飛んできそうだ。なんにせよこれは、優雅でどこかしら高慢を感じさせる香りではなく、フルーティーでみずみずしい香りであると思う。
「なぁねぇちゃん。これ、いくらだ」
「おや、ねぇちゃんとは私のことかい」
「他に誰がいるってんだよ」
「……フフッ、兄さんいい男だねぇ。さぞかしモテるんだろう?」
 花弁が散らぬよう、そっと左手に持った花を置き、脇に置いた付近で剪定ばさみの刃を軽く拭く。持ち手の部分が大分錆びついているが、刃の部分は手に入れた当時の輝きを少しも曇らせていないのだろう。天井に吊るされた照明の光を反射し、店主の女性は、お世辞にも大きいとは言い難い双眸を嬉しそうに細めた。
「いんやぁ、からっきしなんだよなぁこれが。オレも少しは期待してたんだがな、いいと思った女はみんな揃って売約済みときた」
「おや、それは残念だったねぇ。まぁ仕方ないね、いい女の周りには必然的にいい男が集まるもんさ」
「そのへんがよくわからねぇんだよなぁ。ま、確かに一人、後輩ですっげぇのがいやがるが」
 該当の人物は、いい男には違いない。いい男どころか、外見に関してはもうその表現を大きく超越してしまっている。無論中身もいい奴に違いないのだが、あれはどちらかというと、羨ましいよりも憐れといった感情が先に立つ。選り取り見取りってのも考え物だなぁと、つくづく思うのだ。
「で、いくらなんだよ」
 デニムの尻ポケットから小銭を数枚取り出した。どんなに上等な物だろうと、一輪挿しだ、まさか四桁を超えることはそうあるまい。ひいふうみいと有り金を数えていると、ガラス戸を引く音と共に、笑い声が耳に入る。
「いいよ、一本どれでも好きなの持っていきな」
 視線を向ければ、そこにいたはずの店主はなにやら物置のような箱に体を半分突っ込んで、中で何かを探していた。
「選んだらそれを貸しなさい、いいものをつけてあげよう」
 折角の好意を無下にする神経など、持ち合わせてなどいない。遠慮なんて素振りも欠片も見せずに、悪ぃな、じゃあ有難く、などと口にして、一本一本の選別をはじめた。……とはいえ、全て同じように見える花の中から、どれが上等でどれが悪いかなどを見極める技能は持ち得ていない。だから、一番最初に目に留まった、この場に腰を下ろすきっかけとなった花を選ぶことにした。咲き誇る一歩手前、未だ丸みを帯びている、しかし大変に鮮やかな色彩を放つその一本。
 しゅるるる、と聞こえてくる衣擦れの音。
「ところで兄さん」
 選んだ一本をバケツの中から掬い上げ、店主の待つカウンターまで足を運ぶ。彼女にそれを手渡すと、
「あんたまさか、家からここまでその格好で来たのかい?」
 呆れた顔でハサミを持ち、パチンと鳴らす。痛みかけて滲んだ茎が、足元横にぼとりと落ちた。

   *

 繁華街をぶらりと歩く。そこでようやく、先ほどの店主が口にした言葉の意味を、理解することとなった。
 今の季節はなんであるか。答えはそう、この街につけられた名前にあるその一文字。北風が吹きすさび、体内にため込んだ暖を根こそぎ奪い取っていく。そんな中、平気な顔をして練り歩く男へ信じられない、気でも違えたのではないかという視線が集中してしまうのは、致し方ないことである。
 何故ならこの男、襟の大きく開け放たれた、派手なアロハシャツ一枚で歩いていたのだ。手には、先ほど好意で得てきた花を一輪。更に言うと、長い青髪を一つにまとめ、好きなようになびかせている。これではどうしたって注目を集めるだろう。
(そういやアイツも、分厚いダウンを着てやがったなぁ)
 むしろ何でそんなものを着ているんだと口にしたら、何でって……と、妙にしらけた顔でこちらを見たのはそのせいか。
(仕方ねぇだろ、オレは霊体なんだ。お前らと一緒にすんなよな)
 心の中で軽く毒づく。が、かえって少し、空しくなった。

 男――クー・フーリンは英霊だ。ケルトの神話でその名を馳せた、魔槍ゲイ・ボルクを駆使する光の御子。とある女性の祈りに呼応して、冬木のこの地に舞い降りた。
 今日に至るまで、聞くも涙、語るも涙、本当に様々なことがあった。絶望と僅かな希望が綯交ぜになったあの戦いは、どうがんばったって良い物だったとは言い難い。ただ、あの戦いがあったからこそ今の平和な暮らしがあると思えば、少しは救われる気もするのだが。それをそうと認めてしまうのも、釈然としないというのが正直なところである。
 さて、前置きはこのくらいにしておこう。いい加減注がれる視線にも、嫌気がさしてきた。
(どうすっかねぇ……)
 ちらりと横目で右手を見る。軽く握られているのはもちろん、一輪の花。
(なーんでこれが欲しいと思っちまったんだか)
 自分自身のことなのに、本当に訳が分からない。あの赤い主従に知られた日には、それこそ気でも違えたかと訝しむに違いない。
 足を止め、自由な左手で頭を掻き、はぁあ、と大げさに息を吐く。すぐ傍を通りがかった背の低い少女がその行動に驚いたのか、びくりと小さな肩を揺らした。ふいとそちらへ視線をやれば慌てて逸らし、ぱたぱたと走り去っていく。
「……泣くぞ?」
 もうこうなったらヤケだ、とことんまで寒いところに行ってやろうじゃないか。確か、水辺はさらに凍えた空気を醸すと聞く。そうだ、ならばあそこへ行こう。埠頭に座り、煙草をふかして磯釣りにでも洒落込もう。あれだろ、この季節どんなに厚着をしていようと、そんなところへ好き好んで向かうヤツなぞいやしないんだろう?
 そうと決まればさっさと再び歩き出す。右手の花に、ちょっと悪いかなぁなどと思いながら。

   *

「……マジかよ」
 かくして、クー・フーリンの目論みは正しかった。向かった先に、この出で立ちの自分を見て奇妙な顔をする輩は誰ひとりとしていやしない。吹く潮風は心地よく、荒んだ心を癒してくれる。
 そこまでは良かった。埠頭に腰掛け、煙草に火を付けたところまでは良かったのだ。顔を持ち上げ煙を吐いて、いい気持ちで視線を遠くへ投げた、その時に。脇に置いた花と同じ色をもつそれが、目に入ってしまったのだ。
「く、クー・フーリン? 何故貴方がここにいるのです!」
 何処にいても目立つマゼンダの髪を持つ彼女の名はバゼット。バゼット・フラガ・マクレミッツ。ある目的を果たす為、遠い地よりこの日本を訪れた、クー・フーリンのかつてのマスターだ。
 何故、”かつて”なのかというと……説明を始めれば長くなるので、ここでは割愛させていただく。それに、今問題にすべきはそこではない。
「いやいやいや、そいつはオレの台詞だ! バゼット、お前こんなところでなにしてやがる。協会のバイトはどうしたよ……って、」
 まずは格好を目にして絶句。絶句するからには、いつものスーツ姿ではないということは口にせずともおわかりいただけるだろう。彼女の格好は、いつしか見せたティッシュ配りの出で立ちよりも、ある意味レベルアップを果たしていた。
 赤いタートルネックのノースリーブに、同じ赤のアームカバー。真冬の寒さを考慮してか、アームカバーには真っ白のファーが取り付けられていた。太めのプリーツが入ったスカートの丈は太腿の半ばあたりまで。ブーツの丈は膝上まであり、頭にはアームカバーと揃いのファーを用いた耳あてがはめられている。
 こうして記した限りでは、ある程度健全な格好であるように思えるだろう。が、しかし、まぁ、なんというか。それでも出すべき場所は、抜け目なく披露されている。スカートとブーツの隙間から除く眩しい太腿。鎖骨中央に位置するくぼみの上あたりからへその少し下まできわどく切り抜かれ、露わになった谷間は美しいIラインを描いていた。
 続いて目に入ったのは、そのこぶし。なんだ、その……若干腫れていないか? 特に、そう。人差し指から小指にかけて、基節骨にあたる部分が。
 紅玉の双眸から注がれる訝しげな視線の向かう先に気がついたのか、バゼットは慌てて両手を背後に隠した。頬を少し染めながら、ばつが悪そうに下を向く。こめかみを冷たい汗が、流れていった。
「まさか、お前……」
 嫌な予感が脳裏を掠める。バゼットは未だに俯いたまま、唇をきつく噛みしめていた。目を合わせようとしないのは、やましいことがあるからか。無意識にごくりと喉がなる。鼓動の速度が加速する。そして、
「――沈めたのか」
 唇が言葉を紡ごうとしたその瞬間。バゼットはきゅっと覚悟を決めるように瞼を閉じた。が、
「…………はい?」
 すぐに開かれた。上目遣いで様子を伺うように、恐る恐る首を傾げる。
「だからっ! ……やっちまった、んだろ?」
 最初こそ声を荒げるが、慌てて声を静めさせた。他に人の気配がないとは言え、細心の注意を払うべきだ。こほん、と咳払いを落とし、ぼそぼそと話を続ける。
「クー・フーリン、あの」
「いや、いい、わかった。わかったから、とりあえず落ち着け。いいから落ち着け、な?」
「はぁ……」
 今この場で挙動不審なのは、どう見ても彼の方ではあるのだが。ひとまずそれは、置いておく。何よりクー・フーリンには、彼自身を落ち着かせる時間が必要だった。う~、だかあ~、だか唸り声を上げ、頭を抱える。
「……とりあえずお前は、どこかに身を隠した方がいい」
「え?」
「オレが守ってやりたいのはやまやまなんだが、相手がサーヴァントやマスターならともかく警察の人間相手となると分が悪い」
「け、警察……?」
「むしろ、お前の立場を悪化させる可能性だってある。だがな、教会は駄目だ。あいつは信用ならねぇ。こうなったらあの坊主んとこか嬢ちゃんとこが一番いい」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「セイバーとアイツに頭を下げんのはちぃとばかしアレだが、背に腹は代えられねぇ。魚を一〇匹二〇匹でも釣って行きゃあ聞き入れてくれるだろ」
「私の話を」
「こうなったらさっさと釣って、あいつらのとこにだな……」
「クー・フーリン!」
 耳をつんざくような怒声と共に、みぞおちに衝撃が走った。すっかり意識をそちらに持って行かれており、まさか攻撃を受けようなど露ほどにも予想していなかった彼の身体は、感動するくらい綺麗に彼女のこぶしを受け入れたのだ。私の話をきいてくださいと、バゼットは顔を真っ赤にしてぷりぷりと怒っているが、先ほどとは別の意味でそれどころではない。声にならない声を上げながら、クー・フーリンは地に崩れ落ちる。
 あ、やばい。これはやばい。あれか、オレもこのあとここらへ沈められるのか? いやいやそんなバカな話があってたまるか! こんななりでもオレは光の御子クー・フーリン。ただでは死んでやらねぇぜ、せめてヤツの名をこの場に書き記すくらいは――
「何を勘違いしているのか知りませんが、私、警察に捕まるような悪いことなんてしてませんよ!」
「――――あ?」
 未だギシギシ軋むみぞおちを押さえつけながら、高い位置にある彼女の顔を見上げる。すげえな、胸がデカいと顎らへんが隠れるんだなー……とか、そんなことを考えながら。
「ちょ、ちょっとその……私にとって、想定外のことが起こった、というか……」
 これまでの勢いは何処へやら、尻すぼみに小さくなっていく。お前もとりあえず座れば? と勧めれば、バゼットは大人しく隣に腰を下ろした。うん、これはいい眺めだと聞き取ることのできない小さな声で男、クー・フーリンは呟く。いつか読んだ雑誌で、やたらと胸の大きい女性キャラクターが谷間に名刺挟んで渡そうとするシーンがあったことを思い出した。
(あれを断るたぁ男じゃねえよなぁ、あの主人公)
 なんて鼻の下を延ばしてしまうのは、男なのだから仕方がない。
「で、想定外のことってなんだ」
「…………」
 そろそろいい加減邪な考えを薙ぎ払い、本題へ移ろうと問いを投げかければ、うう、と顔が自身の胸につくくらい頭を垂れさせる。そして潤んだ横目でクー・フーリンを見上げ、「笑いませんか?」と念を押す。その仕草にうっかり胸を高鳴らせた彼は、情けない肯定の言葉を返すほかなかった。
「……同じアルバイトの女性が、男性に絡まれていたんです。その絡み方があまりにも目に余ったので、私、止めたんですよ。そうしたらその方、どうやらお酒を飲まれていたようで……私の胸に、手を伸ばしてきたんです。それで、つい……」
 うううっと再び自身で形成した天岩戸に引き籠るバゼット。クー・フーリンは口元を手のひらで押さえつけ、お巡りさんこの人です! と海に向かって叫びそうになる自分自身を必死の思いで抑えつけた。
 彼女のこぶしの強さは、先ほど一発見舞われた際に十分すぎるほど理解した。英霊であるサーヴァントに対して、これほどのダメージを与えるのだ。そこへ一般人が相手となると、命があることすら疑わしい。
「やっぱお前、そりゃあ……」
「たしかに! たしかに彼の頬を殴りました。それだけでなく、腹、顎へパンチ、アッパーを繰り出して、しまいには一本背負投げが綺麗に決まり、我ながら惚れ惚れしたものです!」
「惚れ惚れすんな!」
 今この場に、彼女と彼の二人以外がいないことを、クー・フーリンは心底感謝した。特にあの女性陣が勢ぞろいとあっては、場は深刻なツッコミ不足になること間違いない。男性陣だって、頼りになるどころか責任を彼一人に押し付けて次々と逃げ出す可能性がある。ならば、最初から二人きりであるこの状況は、むしろ感謝しなければならないと、そう思うのだ。
 しかし、とどのつまりそれは、この状況を彼自身の手のみで打破しなければならないということ。頼れる味方は誰ひとりとしていないということだ。逃げるわけにはいかない、何より光の御子クー・フーリンには“敗走”という二文字は存在しない。戦闘続行のスキル保持者として、なんとしても、たとえ相打ちとなっても勝利をつかみ取らねばならない。
 まずは、その勝利を得るために。一番大切なことを確かめよう。
「で、えーと……結局そいつは、生きてんのか?」
「い・き・て・ま・す!」
 一音一音をやけに際立たせて返すバゼットに、おおそうかと思わず後ずさる。最重要事項はこれにてクリアした、が、こうしてひるんでいる場合ではない。引き続き浮かんだ疑問を突いてゆく。
「そりゃあ、何よりだ。……だったら、なんでそんなにへこむ必要があんだよ。お前がしたことは、まぁやりすぎた感は否めねぇが、非難されるようなことじゃないだろ」
 むしろ、助けられた女性にしてみればそれこそ天の救いにも匹敵する。そもそもそんなことになったのは、このような格好をさせた雇い主側にも非があるはずだ。つまりはバゼットに責はない。こんなところでそんなに悲嘆に暮れる必要性を感じない。
「――たかった」
「あ?」
 ぼそりと呟かれた言葉を聞き取れず、未だ伏せたままの彼女の頭に耳を近づけた。しかしそれからしばらくは何も聞こえてこなかったので、ぽんぽん、と優しくノックを試みる。すると衝撃に反応した玩具のように、バゼットはうーー、とうめき声をあげ、ゆっくり頭を持ち上げた。眉間に皺を寄せ眉を吊り上げさせてクー・フーリンを睨み、ぐす、と鼻をすする。子どもかよ、とつい苦笑を漏らすとさらに目つきを鋭くさせ、そして、
「い、いいオンナというものに、なりたかったんです!」
 と、今度はどこにいてもようく聞こえる大きさで、彼女は叫んだのだ。
 完全に虚を突かれたクー・フーリンは、再び思考を停止させる。目の前のバゼットと言えば、まるで千メートル走を休むことなく完走したような、クロールで息継ぎ無しの四百メートルを泳ぎ切ったような、そんな面持ちでぜいぜいと肺呼吸を繰り返していた。
「いいオンナって……」
「あ、貴方が以前言ったことではないですか! トオサカリンがいいオンナだと、マスターにするならば彼女のようなオンナがいいと!」
「えぇ……そんなこと言ったかぁ?」
「言いました! そして、私のことはその、見た目はいい線いっているが中身が駄目だと……」
「……ああ、確かにそれは」 
 言ったような、と。最後の言葉は心の中で音にした。
「いいオンナの定義とはいったい何であるか、色んな方へ聞き込みをしました。結果、いいオンナとは力ではなく、言葉と色香で物事を解決させるものだと分かったのです!」
(そんなことをこいつに吹き込みやがったのは、いったいどこのどいつだ!)
 いや、大方の予想はついている。だが口にすればそれが真実となり、実際にこの場へその人物が現れそうなので、喉元まで出かかった名前をごっくんと飲み込んだ。
「だから、今回のことだって本当ならばきちんと言葉で解決すべきだったんです。頭ではわかっていたんですよ、だからこそ当初は声をかけただけだったんです」
 なのに、結局を手を出してしまった。手を出し更に、失神までさせてしまった。間違いなく今の仕事はクビである。折角見つかった仕事だったのに明日からまたハローワークへ通う日々だ。協会にも迷惑をかけてしまう、と、バゼットは頭を抱えた。
 確かにその行動は、おおよそ彼女が目指すところの“いいオンナ”を逸脱した行為であるには違いない。違いない、が、しかし。
「……別に、いいんじゃね?」
 先程までの狼狽はどこへやら。水面に近づき、泳ぐ魚影の数をのんびり数えだす。
「なっ……どうしてそこで興味を無くすんです! わ、私は……」
「だってよぉ、女一人救ったのは事実じゃねぇか。そいつにしてみたら、お前は間違いなく英雄だぞ」
「で、ですが、私は英雄ではなくて――っ」
 彼女が続きを口にするその前に。クー・フーリンはやれやれと口にしながら、今の今まですっかり忘れ去られていたものを手に取って、バゼットの不意を突き目の前に出現させる。突如視界の中央に現れた大きなマゼンダに、彼女は二、三度瞬きをぱちぱちと繰り返した。
「これは」
 受け取れと、口にはせずに行動で示す。バゼットは怯えたような目つきでクー・フーリンの様子を伺ったあと、おずおずと両手で包み込むように受け取った。
「薔薇……?」
 壊れ物を扱うかのように付け根をそっと持ち、一輪挿しではなく自身の顔を上へ下へ、左右へ動かす。花の全てを見つめるために。その様子がまるで、普段のバゼットではなく幼い少女のように思えて、つい口元が緩んだ。
 ひと目見て、似ているなと思ったのだ。
「やるよ」
「え?」
「なんつーか、妙に気になっちまってな。……これ、お前に似てるだろ」
 マゼンダの、大きな大きな蕾。綠というよりもこげ茶色に近い葉と茎。背筋を飛ばして凛と立つその姿。
「私はこんな……こんな素晴らしいものではありません」
 少し切なげに細められるバゼットの双眸を見て、クー・フーリンはばーか、と額を小突いた。何をするんです、という弱弱しい彼女の抗議に、クツクツと笑いを噛み殺す。
「お前だって、今に中身もいいオンナになるさ。ああ、そうだな。この花が咲くころには、なれるんじゃねぇの?」
 少なくとも、今日のお前は嫌いじゃない。だいたいな、マスターにするならいいオンナ、オレはそう言ったんだ。くれぐれも意味を履き違えんじゃねぇぞ?
 そう口にして、クー・フーリンは真直ぐ足を延ばし、ぐんと背伸びをする。ああ、いい夕焼けだ。故郷で毎日のように臨んだ夕焼けは、それはそれは素晴らしいものだったが、こうしてこの場で見上げるそれも、悪くはない。埠頭に腰掛け釣り糸を垂らす。たとえ魚がかからなくとも、それはそれで有意義な時間のように思える。隣に彼女がいるならば、なかなか飽きなさそうで、それもいい。
 隣で小さなくしゃみの音がした。そういえば、バゼットは生身の人間だったなと今更ながら思い出す。だったらこの寒さはいかにたくましい彼女とはいえ堪えるだろう。しかもその格好だ、風邪をひかれようものなら一斉に責を問われかねない。
「もう仕事は終わったんだろ? 帰って身体温めて、明日に備えて英気を養えるんだな」
 ぐす、と鼻をすすってこくんと頷く。しかし、彼女の視線はずっと手の中の一輪挿しに注がれていた。
(妬けるねぇ……)
 意識する前に浮かんだ言葉に自ら苦笑する。どうしたんです? と顔を上げたバゼットに対し、クー・フーリンは笑みを漏らしながら、
「なんでもねぇよ」
 と口にした。

   *

「これを、アイツが?」
「ええ。クー・フーリンが、私に」
 綺麗ですよねぇ、とうっとり眺めるバゼットに、複雑そうな視線を向けるのは赤い悪魔こと、遠坂凛。
「……さっきから、何故そんな顔をしているのだね」
 主の醸す空気に耐えかねて、ようやっと横槍を入れたのは凛の弓兵《アーチャー》。どうしてこう、マスターの尻拭いをサーヴァントがせねばならんのか、と口にしそうになって、しかしそれは言葉通りと考えれば合点がいくではないか、と導き出した答えにまたため息を吐いた。
「いや、ね……バゼットもランサーも、この薔薇の名前分かってるのかしら」
「何?」
 慌てて視線を凛に倣う。花瓶に生けられたことと、周囲の暖かさで些か蕾が膨らんだように見えるのは気のせいか。
「……凛。念のため聞くが、あの薔薇の名はなんという」
「ええ、それはね……」

 全ては愛のために。全てはあなたへの愛のために。

 彼、もしくは彼女がその真実を知るまでは。それまで二人の秘密としておこう。そう囁き合って、赤の主従は微笑み合った。



All 4 Love









ついったーでリクエストを募集したところ、いただいたお題ランバゼで、そしてかわいらしくを念頭に…。書き方を一人称から三人称へチャレンジしてみたり。バゼットさんのキャラが掴みきれない。カニファンのバゼットさんは可愛らしいですよね。あんこは少し乙女。アタラクシアはどうなのか…。(やれよ) リクエストありがとうございました!
meg (2013年3月 1日 17:10)
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