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 始まりは、取るに足らないほんの些細なやり取りだった。

 ――4月○○日
 聖川様、体調の方は大丈夫ですか?
 雨の中の体育のあと、御髪を拭かれていなかったようですので少し心配です。
 さて、今朝は課題曲のご提案ありがとうございます!
 私なりにあれから少しアレンジを加えてみましたので、お手すきの時にお聞きいただければと思います。
 具体的には……サビの、「タ・タタ・タン」といった部分を、「タ・タタ・ターン」と、少し変えてみました……といっても、これでは分かりずらいですよね、すみません。
 CDを挟んでおきましたので、どうぞご確認ください――……

 色の薄い罫線の上を、愛らしい文字が並びたてられている。とりたて美しいというわけではないが、ああ彼女らしい、ただそれだけで温かさを醸し出す、いい字だと思う。紙と紙の隙間から零れ落ちたのは、文中にもあった直径十二センチメートルのコンパクトディスク。白い盤面には、これまた可愛らしい桜を模したシールが貼られていた。
 思いがけず口元が綻び、こんな様子を見られては大変と必死に押し殺す。特に表へ続く扉を注視し、とりあえずはしばらく彼の者が戻ってくる気配のないことを確認すると、はぁ、とこれまた無意識のうちにため息を吐いた。
 机の引き出しから真新しいCDプレイヤーを取り出し、手の中にあるそれをセットする。ヘッドフォンを装着し、リモコンの再生ボタンを指先で押す。途端に流れ出したのは、耳触りの良い、春を思わせる爽やかなメロディー。
「……ン、ンン、ンーー……」
 指摘のあった箇所が流れると、密かなハミングが内から漏れて、その音を辿る。ああ、なるほど。確かにこの方が歌いやすいし、何よりとても馴染みやすい。うむ、よいのではなかろうか。
 流れる音楽はそのままに、手元にあったシャープペンシルをさっと手に取ると、真新しい紙の上へすぐさま走らせようとした……が、おや、とその手を止めた。しばらく紙面を見つめ、首を傾げる。
 購買部で購入したありきたりの大学ノート。であるからには、すべからく文字の踊らぬ紙面は真っ白で、かつ薄墨色の罫線が走っているのみであるべきだ。だが視界に映るその存在は、明らかにその定義を逸脱している。
 転々と楽しげに散りばめられた薄茶色。じいと見つめれば僅かに規則性を見いだせて、ああ、これは恐らくは……。そう思いながらページの下部へと視線をずらしてゆけば、また一つ、申し訳程度に書き添えられた小さな文字に気が付いた。

 ――ごめんなさい。実は猫が、ノートの上を歩いてしまったんです。でも、少し……可愛くありませんか?

 そして、気を悪くされたらごめんなさいと、結ばれていた。
 よくよく見れば、確かにこれは猫の足跡。恐らくまだ子猫なのだろう、一つ一つは些か小さいように思えたが、その分力いっぱい動き回ったように見える。
 うむ、元気なことは良いことだ。しかし……なぜ、猫?

 ――4月○○日
 早速曲を聴かせてもらった。お前の言うとおり、あの部分はああであるほうが良いと思う。これでいこう。それと、あまり気にならないと言えばそうなのだが、伸ばしている部分の音色を控えめにすれば、さらに印象深いものになるのではないかと俺は思う。兎に角、俺なりに歌い、こうしてCDに焼いたので、聞いてみてほしい。
 ああそれと、気遣い痛み入る。あの後、一十木や四ノ宮にも諭されてな、部屋へ戻り次第すぐにシャワーを浴び体を温めた。今のところ特に不調は見られぬから、恐らくは大丈夫だろう。お前もしっかり体を温め、今日は早めに寝ると良い。……といっても、このノートをお前に渡すのは明日だから、そうしていることを願っている――……

 朝、気が付くと机の教科書入れの中に、そのノートはひっそりと入れられていた。いや、元よりそこにそれがあることは承知の上だった。彼はいつも、他の人には悟られないように、こうして忍び込ませてくれるのだ。
 きっとそれは、彼自身が気恥ずかしいからというのもあるだろうが、何よりも人付き合いを苦手としているパートナーのことを思い、負担が少ないようにとの配慮なのだろう。気を遣わせてしまった申し訳ない気持ちと、しかし気にかけてもらえて嬉しい気持ちが綯交ぜとなり、未だに謝罪の一言も感謝の一言も伝えられていないこの状況。その上、今日こそ言おう! と、そう意気込み一歩を踏み出すたびに、自分の元、あるいは彼の元へ友人たちが姿を現すものだから、結局またその言葉は喉奥へと仕舞われる。
 折角の楽しい時間なのだ、きっといつでも口にできる。そうまた今度、また今度……などとやっていたら、もう二週間も過ぎてしまった。流石にこれには焦りを感じる。いっそ文字にして伝えてしまおうか……と物思いにふけったていたところ、窓からの突然の来訪者に、こうしてノートを汚された。
(あああああ……)
 いつもならきちんと窓際に置いた付近で足を拭いてから入るいい子なのに。どうして今日に限って、しかもピンポイントでノートの上に着地なんてしたのだろう。すでにベッドの上へ移動した黒い小さな塊へ、ちらりと視線を走らせる。それに気づくと、彼はふりふりと短い尻尾を振り、愛らしくにゃあと鳴いてみせた。
「そう……ですよね、クップルに罪はありません……」
 ここで怒ってみせたところで、起きてしまった出来事を引っくり返すことはできない。その見開きを真直ぐ広げ、両手で上へと持ち上げる。てん、てん、てんと、まるで模様のように踊る無数の足跡。
「……ふふっ」
 決して、微笑むべき場面ではないのに。つい、可愛いなと思ってしまったのだ。
(聖川様、動物はお好きかなぁ……)
 そしてつい、汚れたページはそのままに。代わりにペンを走らせた。

 ――ああそれと。
 子猫の足跡、非常に愛らしいものだな。渋谷と共に飼っているのか? 確か、寮はペット禁制だったような気はしたが。もしも飼っているのなら、十分に気を付けるのだぞ。
 いつの日か、是非お目にかかりたいものだ。

 ああよかった、どうやらお嫌いではないらしい。うっかりこぼれ出た微笑みを、隠す様に開いたノートで口元を覆う。紙面からは、紙が持つ独特の香りではなく、また別の、例えば墨のような、懐かしい香りが鼻先を掠めた。
 なぜだろう。こうして彼の存在を間近に感じるたびに、なんだか心臓のあたりが妙にこそばゆくなる。始業式にあれだけの衝撃を受けたからか、遠かった距離が徐々に近づきつつあると実感すればするほど、こう、言いようのない幸福感に満ち溢れる。
 これが、友達になるということだろうか。しかし、同じく友達である(と思っている)友千香や音也とは、またわけが違う気もする。
 その答えは、今の春歌にはまだ分からない。けれどもこのことは間違いなく、大変喜ばしいことである、ということだけはわかった。
 だったら嬉しいこの気持ちのまま、彼にある提案をしてみよう。抱き続けた感謝の念を、今度こそ確かに伝えるために。
 そうして震える指先で、精いっぱいの勇気を振り絞りノートへ向かった。

 ――ところで、もう5月になりますね。来週から早乙女ランドで、ふれあいコーナーが設けられると耳にしました。ふだん動物小屋にいるウサギやモルモットと遊ぶことができるんです。

 そこで、その……聖川様さえよければ、なんですが……。

 ぎゅっとノートの端を両手で握り、真斗の目の前に立ち尽くす。首を傾げる彼を気に掛ける余裕はなく、機械的な動きで勢いよくノートを彼に差し出した。
「私と一緒に、行ってくださいませんか……っ!」
 真斗はその様子に少し圧倒されながら、片手でノートを受け取った。春歌の勢いを引き継ぐように、その場でノートをめくり該当のページへ視線を落とす。その間、春歌は顔を俯かせたまま、真っ赤に染め上げたまま、今にも崩れ落ちそうな両膝を必死の思いで奮い立たせながら答を待つ。神様、お願いします! なんて心の中で唱えながら。
 彼は、相変わらず丁寧に春歌の記した文字を追っている。そしてついに、問題の箇所へ到達したのだろう。細い目をこれでもかというほど押し広げ、そして少し間を置いてから音を立ててノートを閉じた。
 遂に判決が言い渡される。ぎゅっと瞼をきつく閉じて、春歌は彼の言葉を待つ。しかし真斗は彼女のそんな気持ちを知ってか知らずか、あるいは見て見ぬふりをしたのか、少し間を置いたのち、春歌の脇をすっと通り過ぎて行った。
 その様子を受けて、握りしめた拳から力が抜けると共に、春歌の顔に落胆の色が滲む。
(私とでは嫌、だったのでしょうか……)
 気を抜けばすぐにでも涙が溢れだしそうな涙腺を必死に律し、かぶりを振った。これ以上ここに留まっていてもきっと迷惑だ。潔く諦めて、自分も前へ足を踏み出そう――と、そう思ったその瞬間。
 聞こえていた足音が、ピタリと止む。
 そして、
「……俺とでよいなら、喜んで」
 彼女にしか聞き取れないだろう微かなボリュームの音楽が、彼女の耳の内へ注ぎ込まれたのだ。
 慌てて振り返れば、再び歩み始めた彼の後姿が目に入る。真斗の前から現れて、すれ違いざまに彼と挨拶を交わした音也が春歌にも、「おはよう! ……あれ、七海どうしたの?」と誰にでも聞き取れる高さの言葉をかけてきたが、右から左へ通過した。

 風に揺れる、深い青色の隙間から覗いた耳は、先まで真っ赤に染まり上がっていた。



子猫のポルカ









真斗くんと春ちゃんの、交換日記。真斗√のクップルは、6月登場だったね…。
クップルだけアニメ仕様でよろしく哀愁。
それ以外はゲームでの設定を想定。寮のお部屋とか。
meg (2013年3月26日 14:27)

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