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 ぱちり、とそうするつもりは毛頭なかったのに、持ち主の希望を無視して瞼ははっきりと開け放たれた。あ、これはもう再び眠りにつくことなどできないな――と、これまでの経験からその持ち主、春歌は自信をもって断言する。自分自身に向かって、心の中で。
 身体は一糸も纏っていない、生まれたままの姿だった。ようやく春の兆しが見え始めた冬の夕暮れ。普通に考えれば、寒くない、わけがない。
 しかし、春歌はそれを露ほども感じることはなかった。それどころか、
(あたたかい……)
 と、幸せそうに目を細め、少し頬を火照らせる。
 それもそのはず。何もないところでよく転び、また作業に入り込んだとたん音楽以外のすべてが頭に入らなくなる春歌だって、いくらなんでも素っ裸のままそこらへんをうろつきまわる、なんてことはしない。
 つまり、彼女の身体はとても温かい中にあるのだ。それは、よく暖房のきいた部屋であったり、はたまた適当な温度の湯が張られた風呂の中であったりと考えられる場所はいくらでもあるのだが。
(檜の香りがします……)
 春歌は今、考えられるすべての中で最も温かく、また最も心安らぐ居心地の良い空間の中にいる。少し手を伸ばせば滑らかな弾力を捉え、すい、と指をすべらせればふるりと少し揺れ動く。己の額には、甘やかなそよ風が一定のリズムで寄せてくる。上等な真っ白のシーツが鎖骨より下を覆っており、剥き出しとなっている肩は、他のものを寄せ付けぬよう、白いがしかし逞しい、骨ばった長い何かによって守られていた。
(……まさとくん)
 そう、その何かとは。
 国内において一、二を争う大財閥の御曹司、また世間において絶大な人気を誇るアイドルグループのメンバーの一人。
 聖川真斗。その人の腕、であった。
(真斗くん、睫毛長いな……)
 閉じた瞼を縁どる睫毛。化粧などなにも施されていないのに、これほどまでに濃い影を落とす長さと質量を持つ者はあまりいないのではなかろうか。しかも彼は、男性である。羨ましい、と思ってしまうのは、決して自分一人ではないはずだ。
 睫毛だけではない。形のよい眉毛に切れ長の双眸。真直ぐ通った鼻筋に、薄い上品な唇。どれ一つとっても完成されており、また右目下に添えられた黒子が更に溢れる気品を掻き立てている。さすがにこの風貌を女性、と誤ることはないが……しかし、もしも土台が男性のそれでなく女性のそれであったなら。それはそれは、とびきり美しい大和撫子であったことだろう。ああ、もしかしたら彼の可愛らしい妹がいずれはそうなるのかもしれない。そうなったときの、今より輪をかけてひどくなるだろう彼の過保護ぶりを想像して、ひとりこっそりと笑みを零した。
 すると、
「ン……」
 多めに溢れた吐息が彼の鎖骨を強く叩いたのか、気怠そうに短く息を吐いて体を揺らす。慌てて口に手をやるが、後の祭り。
 連日の収録で疲れているだろうに、たった一日のオフを、自分の為にこうしてやって来て、有り余る愛を注いでくれた。だからせめて、この安らかな休息の時間だけは守ってやりたい。誰に架されたわけではない、しかしこれは自分の義務だと思っている。アイドルになった彼のため、作曲家としてではなく、七海春歌という、彼のたった一人の恋人として、だ。
「は……る……?」
 うっすらと開いた瞼に掠れ声。その様子から察するに、どうやら彼は未だ夢と現実の境を彷徨っているよう。
 欲に塗れた声で自分の名を呼ぶ彼は、それはそれは大変色めき立っており、熱に浮かされた思考を更に蕩けさせるものだが、こうして寝惚けた声で自分を呼ぶ彼も、それはそれで非常に危うい色を孕んでいた。つい食べてしまいたくなる、とはこういう時のことを言うのだろう。
 と、そこまで考えて、自分はいったい何を考えているのかと頬を紅潮させ、春歌は勢いよくかぶりを振った。
「あ、ええと……ま、真斗くん、目が覚めてしまいましたか?」
「いや……、ぅん……」
 相変わらず焦点の定まらない蕩けた瞳で周囲を見回し、そしてようやく春歌のもつ菜の花色の双眸に照準を合わせると、春歌の肩に重ねていた腕をゆるゆると持ち上げた。五本の指を、甚三紅の海の中へ埋もれさせ、すいと後ろへ後ろへ引いてゆく。サラサラと音を立てて、春歌の短い髪は指と指の隙間をすり抜け落ちて行った。
「……もしかして、寝惚けてますか?」
「…………」
 答えは、なかった。ただ無言でひたすらその行為を繰り返す真斗の指先に何やら気恥ずかしさを感じ、おずおずと下げた視線を再び上昇させる。が、予想に反して彼の瞼は、固く固く閉じられていた。
「ま、まさとく――」
「…………ハル……」
「は、はいっ!」
 真斗の呼びかけに春歌が答えた瞬間、その手は動きを止めた。腕は再び力を失い、ずるり、と首筋を通過しシーツの上へ沈み込む。
 今や彼女をベッドの上に繋ぎとめる枷は何もない。ゆっくりと上体を上げると掛布団は体の上から滑り落ち、春歌の肌は白日の下に晒された。さっと視線を走らせただけで、赤い花弁を十は確認できたものだから、「もうっ!」と静かに苦言を呈してみる。無論、そこに本当の意味でのそれは何一つ含まれていないのだが。
 真斗は、その腕の中から恋人がいなくなったにもかかわらず、安らかな寝息を立てつづけている。少し前だったなら、ほんの少し体を離しただけで敏感に反応し、引き止めていただろうに。それほどまでに疲れているのだろうか。
「は、る」
 先ほどまで頭を乗せていた腕がおもむろに動き、指先が何かを探す。上体を支える為に置いていた、春歌の手の指先にそれらが触れると、ひと撫でふた撫でした後に、そのまま人差し指を咥え込んだ。
「…………ふふっ!」
 奪われた指はそのままに、空いている方の手で、瞼まで覆い隠そうと滑り落ちてくる真斗の艶やかな髪を払ってやった。珍しく剥き出しになった彼の右耳。ああ、そういえばいつぞやかの雑誌にて、左耳が晒されているものがあったなと。
「……まさと、くん」
 そっと唇を近づけて、彼の名を紡ぐ。
「まさ、と」
 彼が目を覚ましている間には、決して口にできない、呼び方で。
 愛を囁かれていないのに。抱きしめられていないのに。くちづけを交わしていないのに。
 ただただ見つめているだけなのに、こんなに、こんなにも。
 こんなにも、胸の中が彼でいっぱいになるなんて。

「…………あいして、います」

 抱えきれないほどの愛をこめて、耳たぶに啄ばむだけの、くちづけを。
 夢の中の私もどうか、貴方に愛を、囁きますように。
 砂糖菓子よりも甘い願いを乗せて。



シークレット・
シュガー・ベース









真斗くんは、こうして春ちゃんと愛し合った後でないと、
深く眠ることができないんじゃないかなぁとか。
meg (2013年3月27日 11:26)

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