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 校庭、迷宮の入り口となる桜の木の裏側――。
 俺はその根元に腰を落ち着けて、厚みのあるハードカバーの古びた装丁を持つ本を組んだ足の上に押し広げ、羽ペンを滑らせていた。

 作家が執筆活動を真剣かつ円滑に進めるためには、紙とペン、灯りと机、何よりも集中力を研ぎ澄ます静謐さは必須である。だがこの場所ときたら、人の数が少ないので幾分静かなのだろうと思いきや、周囲にいるNPC共ときたら中身もないのによく喋ること喋ること。静寂を求め教室の外に出れば、今度はあのエロ尼が首を突っ込み覗き見ようとしてくるではないか。
 俺をこの場へ落としたからには、作家にとっての安寧の地くらいは用意しておけ。そう、マスター共の健康管理担当と言い張るあの特殊なNPCへ苦情を申し入れたいところである。
 ――が、まぁ。如何に月の汚物とも形容できるあの女が作り上げたものにしては、この木はよくできていた。前述したNPCと同じ名を持つそうだが、俺が生身の身体を持っていた生涯、そして英霊として祭り上げられ幾度もの戦場を駆け巡ってきた記憶の中にも、これに匹敵する花を目にしたことがない。

 これほどまでの美しさと儚さ、そして乱暴なまでの凶器と支配欲を併せ持つ花、という意味でだ。ああまるで、あの女のようではないか、と一人せせら笑った。

「……アンデルセン?」
 不意に、真後ろから聞こえてきた小鳥の声。真後ろ、というよりも、真裏、といった方が正しいか。
「アンデルセン、よね。何しているの?」
 柔らかい土の上だ、足音は聞こえないがその気配は確実に近づいてくる。我欲の薄い、色の無い女の香りだ。
 だが、気配はあともう少しで俺の目と鼻の先に到達する、といったところでピタリと止んだ。まるで、物陰から伺うように、なりを潜めている。まるで、俺の許しを請うように。
「……まったく、そこまで来ておきながら、何を躊躇っているのだバカめ」
「いやだって、邪魔かなと……」
「邪魔だと思うなら、最初から声をかけるなという話だ、このバカが!」
「う、ご、ごめん……」
 だからって、二度も言わなくても……などとゴネながら、女はゆらりと再び姿を現した。全く、この女は何を今さらなことを口走っているのだ。良く言うではないか、大事なことなのでなんとやら、と。まあ、お前に限っては二度のみと言わず、三度は繰り返した方が効果はありそうだがな――。
 この両目に映った声の主は、女。たったそれだけで言いようのない色香を放つ、紺色の衣装を身に纏っているとは思えない、無垢な存在。先端のみ波立った、風に揺れる長い栗色の髪がさらにそれを助長した。貴様、あの赤い女やエロ尼の爪を煎じて飲み下しても罰は当たらないのではないか、と思わずチャチを入れたくなる。
「それで、いったいわざわざここへ何の用だ。もう、今日は迷宮に用はないのだろう?」
 ぼんやりと立ちつくし、俺を見下ろす女の顔を視界から外し、再び途中まで文字の連なった白地の紙へ視線を落とす。
 別に、隠す必要はない。こいつは特に興味をそそられるだとか、必要に迫られない限り、他人の領域に土足で足を突っ込むような女ではない。
 ……多分。
「いや別に、用ってわけじゃないんだけど」
「ならばさっさとお前の部屋に戻れ。生憎俺は今執筆中でな、お前の相手をしている暇はない」
「嘘、ごめんなさい、アンデルセンにご用があります、聞きたいことがあって来ました!」
 そんなわかりきったやり取りを片手間に、すらすらとペン先を動かしてゆく。校内におけるNPC共による嵐のような喧騒に比べれば、この女の言葉などまるで花弁を揺らす程度のそよ風に過ぎん。
 せめてあのエロ尼も、こうであればよいものを……などと、我ながら空々しい願いを零した。
「ではなんだ。夜食がてらに聞いてやる」
 まぁ、この世界に夜などという概念はないのだがな。まったく、英霊とは便利なものだ。特に体力を消耗していなければ、いくら寝ずともペンを動かすことが出来るのだ。生前、こうあればよかったものを。
 俺の許しを得たからか、女はぱっと表情を明るくさせて、俺の真横へおもむろに腰を下ろす。いそいそと差し出したのは、ある書籍。
「……これは」
 背表紙には、"雪の女王”、と書かれていた。

 悪魔が作った魔法の鏡。それはばらばらに砕け散り、欠片が善良な少年の胸と瞳に飛び込んだ。心臓は氷のように凍てついて、瞳は映るもの全てを歪ませる。
 少年は突然姿を眩ませた。その少年を探すべく旅に出たのは、仲睦まじかった一人の少女。幾度もの苦難、そして得難き出会いを経験し、辿り着いたは雪の女王が住まう城。
『カイ、すきなカイ。ああ、あたしとうとう、みつけたわ。』
 すでに、まるで雪のように凍えた少年の小さな体。その上へ零れ落ちる、ぬくとい少女の綺麗な涙。熱い真心は氷を溶かし、こころへ染み込み一つ目のかけらを抜き去った。
 少年の瞼は開き、少女を見やる。少女は少年の瞳を見、声高らかに歌う。
 "ばらのはな さきてはちりぬ おさな子エス やがてあおがん”
 歌を聞いた少年は涙を流す。あまりに、あまりにもひどく涙を流すものだから。
 少年を縛り付けていた、最後の欠片が溢れ出て。少年はついに、全てを取り戻したのだった。

「アンデルセンは、どんな気持ちでこれを書いたの?」
 純粋な女の視線が俺を射抜く。読者としてその物語を描いた作者に興味を抱く、不純物の欠片もない善良な眼差しだ。
「…………」
 まったく、なんという女だ。前回俺にあの本を持ってきたかと思えば、今回はこれときた。前回はなけなしのマトリクスを開示してやり事なきを得たが、よほどこいつは俺の傷を白日の下に晒したくて仕方がないらしい。
「えと……アンデル、セン……?」
 いつまでたっても応えぬ俺を不思議に思ったのか、少し怪訝な面持ちで小首を傾げる。そりゃあそうだろうとも、いったいどこの誰が好き好んで自身の醜い痕を表に出したがるというのだ、馬鹿め。
「……たまには、読者の感想というものを聞かせてもらおうか」
「へ……」
「お前はこれを読み、どう感じたのだと聞いている」
 我ながら、苦しい意趣返しだ。いや、意趣返しというのは言葉の綾だ。取り立て恨みといった念を抱いているわけではないが、そうだな……少しだけ、意地の悪いことをしてみたくなったのだ。
 平凡な読者なら、ここで一度迷うだろう。食いついてくるあたり悪い感情は持っていないが、作者に嫌われたくない、からこそ、上手い文句を口にしたがる。
 案の定女も言葉を止めた。さて、しばらく間を置いて、
「えっ……と、」
 その小さな口から飛び出してくる言葉は果たして――――

「探してほしかったのかな……って」

「……は」
 思わず、むしろこちらから間抜けな言葉が飛び出した。本当ならここで笑っているのは俺のはずだった。いや、今や誰ひとりとして笑ってはいないが。
「あ、えと、うん、ごめん」
「謝るくらいなら最初から口にするな。というか、どうしてそうなる」
 普段ならばすらすらと紡げるはずの悪態すらなりを潜めている。それほどまでに、女の言葉が意外だった……というよりも、
「……うん、だって」
 どちらかというと、むしろそれは――

 "ああ、あたしとうとう、みつけたわ”
 行方を眩ませた少年。その少年を探しに、途方もない旅に出た少女。

「何を犠牲にしても、たとえどんな危険を冒しても、探しに来てほしいって」

 氷のように凍てついた少年の心を溶かしたのは、ひとの体温を宿した少女の涙。

「心から愛した誰かから、アンデルセンも」

 少女の歌は涙を誘い、かつての純心を甦らせる。
 真っ白の雪に覆い尽くされた世界は彩を放つ。

「手を、差し伸べてほしかったのかな……って……」
 と、女はそこで言葉を詰まらせた。柘榴の瞳を大きく大きく開け放ち、ひゅっと音を立てて息を飲む。
 なんだ、どうした。どうしてそんな顔をしている。……なんだ、お前がいったいどんな顔をしているかだと? ああ傑作だぞ、鏡がこの場にないのがまっこと残念だ!
 まるで物語冒頭に出てくる、悪魔の鏡にその顔を映したかのような――
「ご……めん、アンデルセン……」
「は」
 絞り出すように紡がれた、か細い声。
「ごめん、あのその、ぶしつけに……。ほんっと、ごめん……」
「……お前、今度は突然何を」
「だって!」
 女の長い両手が俺に向かって伸ばされる。初めてそうと認識したその瞬間からコンマ一秒、避けようと身を捩る、が、俺もいい加減この微温湯に浸かりすぎたのか、身体が全く言うことを聞かなかった。
 おもむろに伸ばされた手、しかも女の手であるのに。いとも簡単に捕らわれてしまう、幼く退行した忌々しい我が肉体。行く先は、あのエロ尼が持つ分厚い肉厚とも、はたまた幼い少女特有の滑らかな肌とも異なる、ごつごつとしたまるで岩壁のように固い――とはいえ、ある部分に限っては柔らかくないとは言えなくない――身体。
 視界が肌触りの良い紺色に塗りつぶされる。耳朶を、女の生ぬるい吐息が通り過ぎる。
 ほのかな石鹸の香りが、この小さな鼻先を掠めていった。
「だって、そんな辛そうな顔、させた……!」

 …………辛そうな、顔? いったい誰の?
 そんな顔、生まれ出でてからこれまで掃いて捨てるほど見てきたぞ。

 誰の顔を見たのだと? 馬鹿め、そんなもの決まっていよう。

 ひどい裏切りを受けた男。嫉妬に狂い我を忘れる女。
 愚行を犯した、生前数少ない友であったはずの者。
 敗北を喫し、無残に散りゆくかつてのマスター。

 そして――

「……俺、か?」

 ――恋に破れ、人生に敗れ、あらゆるものに絶望し、人間を愛することを諦めたはずの、

 哀れで醜い、男の顔。

 重なる二つの身体の隙間から、手にしていたはずの羽ペンが転がり落ちる。転がる道中インクが垂れて、白い野原にぽつぽつと、黒い染みが涙のように滲んでゆく。
 その染みを覆いつくし、まるで消し去ろうとでもするように、白い花びらがはらはらと。
 愛しむように、慰めるように、あるいは嘲笑うように。

 二人の周囲を、囲んでいった。



アルベド








~「雪の女王」青空文庫より要約、引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/000019/files/42387_20568.html

アルベド(Albedo)=ラテン語で「白さ」の意。




人間をもう愛さないと決めたという彼だけど、でも心の何処かで、人間を愛したがっている、そして愛されたがっているんじゃないかと思って止みません。
meg (2013年5月 9日 10:12)
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