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beyond the RainyBlue



 まるでバケツを引っくり返したかのような大雨が、早朝から絶えず降っていた。
 そこかしこから、やだ、サイアクだなどといった言葉が聞こえてくる。それはそうだ、なにしろ雨が降ってしまえばグラウンドでの体育の授業がなくなるし、そもそも制服や鞄、足元を濡らしてしまうという点から、誰にとってもあまり歓迎できるものではないと言えよう。
 が、窓際でぼんやりと外の風景を眺める青年――ディルムッドにとっては、声高らかに不満を口にする同級生たちに比べればそういった感情は少ない方だった。雨が降れば、平然と傘で顔を隠して外を歩けるし、耳に入る窓や地面を打つ雨音は不思議と心を落ちかせてくれる。
 ……だがそれも、普段であれば、の話だ。今日はやけに落ち着かない。言われずともその原因は既にわかりきっていた。
「あいつ、遅いな」
 見つめる先は、そろそろ人だかりが少なくなってきた校門。あともう三分ほどで、本鈴が鳴る。
「なぁ、今日は一緒じゃなかったのか? いつもは二人で登校してるだろ」
 前の席に座り、椅子をこちらに向けて音を立てながらパックのジュースをすする愛らしい少年が、さして興味もなさそうにそう問いを投げかける。パックの色は、薄いが渋い緑色。なるほど、抹茶・オ・レか。
「ああ。迎えに行こうと家を出たところで、彼女からメールがあったんだ」
 二つ折りの携帯電話をポケットから取り出して、ぱかりと開く。ピッピと二つ三つのボタン操作で表示されたのは、何の装飾もないたった二行のシンプルな文面。
 ――すまない、寝坊した。どうか先に行っていてくれ。
 その言葉に従い、こうして先に学校まで足を運んでみたものの、妙に落ち着かない。それはそうだ、何しろ低身長ながらディルムッドを守ると息巻き周囲に目を光らせるある少女の存在が、今日は隣りにいないのだ。普段そうして不本意ながら牽制されている者たちの目が、一斉に彼の元へ向いてしまうのは、致し方ないことである。
 だが校内で向けられる視線は多いにせよ、少女のいないディルムッドの身に、通常ならば学校へ着くまでに一悶着、辿りついてからも二悶着ほどは起こりそうなものだが、今日に限ってはそのようなことは一切起こらなかった。
 それは何故か。
 前述の通り今日は雨。しかも、ここ最近では珍しい大雨だ。必然的に皆の目は足元へ向かう。つまり、凶器を持つ彼の顔はあまり人目につくことがなかったため、と言える。
「寝坊、か。そういえば昨日は試合だって言ってたな」
 成績優秀、かつ品行方正な彼女が寝坊とは珍しいが、彼の言うとおり、昨日は彼女にとって大事な試合が催された。全国大会への切符がかかった、重要な試合だ。絶対に勝たねばならぬと息巻き稽古に励む彼女をディルムッドはずっと見てきた。
 結果、これまでの修行が実を結び、彼女は無事優勝を勝ち取ることができた。このことについては自分のことのように嬉しく思う。
 だが試合から帰宅した夜、普段なら欠かすことのない「おやすみ」という挨拶メールの受信、そして返信がいつまでたっても来なかった。恐らくは急激な疲労に襲われて、メールはもちろん、目覚まし時計を仕掛けることもしないまま眠りに落ちてしまったのだろう。せめて朝、目が醒めたその時にでも、メールの一つや二つくらいしてやればよかったと今更ながら後悔した。
「いや、別にそこまでしなくても。というか、今回のことはお前の責任じゃないだろ。セイバーだってそうは思ってないだろうしさ」
 むしろ、お前がそう責任を感じることの方が、彼女にとっては不本意なはずだ。と、少年……ウェイバー・ベルベットに慰めのような言葉を口にされ、ディルムッドは力なく笑った。
 その瞬間。ガラリ、と勢いよく教室の扉が開く。ついでに、小さな悲鳴も聞こえた。
「ウェイバー、ジャージを貸してくれ!」
 そして息つく間もなくずかずかとこちらに向かって近づいてくる小さな人影。一歩進むごとにぴょこぴょこと揺れる飛び出した毛先が愛らしい。しかし、それ以外の風情については、いち生徒として教室内に溶け込みホームルームを迎えるには、あまりにも逸脱しすぎていた。
「おはよう、セイバー。……その恰好はどうした」
 誰だって、そう問わずにはいられないだろう。周囲を見回すと、あまり親しく話したことのない生徒までもが、こちらの状況を注視している。
 ぽた、ぽたりと妙にまとまった毛先から零れ落ちる水滴。いや、そこだけではない。セーラーの襟、スカーフの端、スカートの裾……ありとあらゆる箇所から水が滴り落ちている。元々が美形である少女だ、水も滴るなんとやら……と口にしたいところではあるが、今はそう言っていられる場面ではない。
 先程からセイバーと呼ばれているその少女、アルトリアは、額から鼻を通過し滴り落ちて行った水滴を濡れそぼった袖でぐいと拭った。そして、ふ、と手の甲を見つめ、
「ああ……傘を忘れた」
 一瞬、どこか辛そうに長い睫を伏せた。その様子に、普段常に行動を共にしているディルムッドが気が付かない、はずがない。だが、
「忘れたって……お前、今日は目覚める前から雨だっただろ。なのにどうして忘れることがあるんだよ」
「急いでいたんだ、仕方ないだろう」
「仕方ない、で済めばジャージはいらないだろぉ!」
「すまない」
「そうじゃなくて……ああ、もう、いいからお前待ってろ!」
 矢継ぎ早に言葉を発するウェイバーと、いちいち簡潔に答えるアルトリアに、開いた口を閉ざされた。
 形のよい眉を吊り上げながらゼイゼイと肩で呼吸をした後に、律儀に教室後ろへ配置されたロッカーまでアルトリアの所望するジャージを取りに向かうウェイバーは、本当に良い友人だなと感心する。
 その間に先程の様子について問うてしまおうと改めてアルトリアの方に向き直る、が、今度はその後の彼女の行動にそれを憚られた。
 アルトリアは、まるで犬のように勢いよくかぶりをふって水滴を飛ばし、ディルムッドの隣に位置する席へつく。そして、さっさと必要な教科書の類をこれまた見事に水を被った鞄の中から取り出し始めた。彼女の後ろに座る生徒は、ぎょっとしたような顔をしている。
「……セイバー、まずは拭け」
「む?」
「こちらを向け。まったく、いくら鍛えているとはいえ、それでは誰だって風邪を引く」
 言いながら机の横にあるフックへかけた部活鞄の中から、洗ったばかりのタオルを取り出しアルトリアの頭にかぶせた。そして、そのままわしゃわしゃと撫でつけてゆく。普段はきちんと美しい団子に結われている彼女の髪も、今日ばかりはただ一つにまとめられ結われただけだった。
「それに、ジャージなら俺のものを貸すというのに。そのほうが返す時も楽だろう」
「いや、確かにそうだが、あなたのジャージは些か私には大きい。その点、ウェイバーのものはサイズがピッタリだからな」
「些か……」
 何か、と被せられたタオルの隙間から、アルトリアの瞳が恐ろしい光を放ったかのような気がして、苦笑しつついや何も、と返す。彼女とディルムッドの身長差は約三〇センチメートル。丁度、彼の手で拭きやすい位置に彼女の頭がある。そのような状態で、些かもなにもないだろう、などと思ってしまったことは、ここだけの秘密だ。
「悪かったな、ピッタリで」
 今度はあからさまに不満をあらわにした高い声が、耳に入ってきた。そのまま顔だけを左へ向ければ、やはり不機嫌そのものといった顔つきのウェイバーが、ジャージを片手に戻ってきている。
「ていうかお前ジャージも忘れたのかよ、今日の体育どうするつもりだったんだ」
「忘れたというより、この雨で乾かなかったんだ」
「ああ、じゃあもとより借りるつもりではあったんだな」
「そのとおり」
「そのとおり、じゃなあああああい!」
 お前、僕が持ってなかったらどうするつもりだったんだよ、とジャージを押し付けながら喚く(何だかんだで面倒見のよい)ウェイバーに、その時はその時でランサー(これはディルムッドの愛称である)に借りるつもりだったと受け取りながらさらりと答えるアルトリア。もちろん、きちんと謝辞を伝えつつ。
 その後、本鈴が鳴り担当教師が姿を現した際、事情を説明してホームルームの間アルトリアは更衣室へ着替えに向かった。ウェイバーから借り受けたジャージは、アルトリアにとってまるで吸い付く様に丈がピッタリで。そのことを平然と彼女は口にするものだから、ウェイバーが更に機嫌を悪くしてしまったことは言うまでもない。
 そして、ディルムッドの胸にも。
 言いようのない、今日の空に広がる黒い靄のようなものに心を覆われたような気がして、何やら落ち着かない学校生活を過ごしたのだった。

   * * *

 終礼後、帰り道。もうすっかりと雨は止み、明るい太陽が顔を出している。
 試合直後のため部活がないというアルトリアに付き合って、ウェイバーも一緒にとある雑貨屋へ来ていた。こういったところへ来る際は、大抵がウェイバーやディルムッドのリクエストによるものだが、今回については珍しく、彼女から言い出したことだった。
「新しい傘を買いたい」
 との、ことであるらしい。忘れただけではなかったのか、という二人からの問いかけに対しては、色々あって新しいものが必要なのだ、という、少し歯切れの悪い辛そうなアルトリアの言葉によって、それ以上追及することを憚られた。
「セイバー、これはどうだ」
 まずディルムッドが差し出したのは、空を思わせる爽やかな水色の傘。失くしたと言った、彼女が以前持っていた傘と同じ色。一旦手に取り、その場で開いてううん、と首を捻る。
「色については申し分ないのだが……少しばかり、骨が弱い気がする。これでは強風に耐えられまい」
「ああ、確かにそうだな。では、これはどうだ」
「これは頑丈だが、しかし重いな」
 雨の日だからか、今日はやけに傘のコーナーが充実していた。ウェイバーは早々に傘選びに飽き、文房具のエリアで新しいノートとペンが欲しいと物色している。傘のコーナーの近くへは、愛らしいマスコットのついたストラップが売られており、「これはなんだかウェイバーに似ていないか?」などと本人をちらちら見ながら二人で笑うと、何かよからぬ気配を感じたのかその都度彼に睨まれた。
「あ、…………」
 そして数分が経過してもなかなか彼女の眼鏡にかなう傘が見つけられず、少し離れた場所にある傘のコーナーへディルムッドが足を延ばしていったその時。ふと、アルトリアの動きが止まった。
「…………」
 彼女の目線の先にあるのは、男物の大きな黒い傘……ではなく。金色の鬣を持つ、デフォルメされた愛らしいライオンのマスコットがついた、黄色の傘。
「………………可愛い」
 ぼそり、と呟いて手を伸ばす。ああ、意外に柄は握りやすく、骨もしっかりしている。大きさは私にしては丁度良いか。これならば竹刀の鞘も部活の鞄も入るだろう。だが、その……私にしては、些か可愛らしすぎるというか、何と言うか……
「セイバー、これはどうだ?」
「わああああああ!」
 突如背中から声をかけられ、荒々しくズボリと元あったところに手にしていた傘を突っ込んだ。無論そんなアルトリアに驚いて、ディルムッドもびくりとその大きな肩を揺らす。
「せ、セイバー、すまん驚かせたか?」
「あ、う、いや、その……っ、ななななんでもない!」
 あからさまになんでもなくはない態度を見せるアルトリアに、ディルムッドは首を傾げた。なんなんだよ急に大声だして、と買い物を終えたのか、ウェイバーまでその場にやってくる。なんでもない、なんでもないから! とさらに動きを大げさにするアルトリアに、改めて彼は不審な目を向けた。
「……別に、いいけど。それよりもう決めたのか、傘」
「か、かさ……?」
「おいおい、そのために来たんだろ」
 しっかりしてくれよ、と深くため息を吐くウェイバーを見て、ようやく冷静に物を考えられるようになってきたアルトリアは、その様子にムッとする。もともとが負けず嫌いの彼女だ、もちろん決まったぞ! とその場の勢いに乗って豪語した。
 それがまずかった。そう口にしてしまえば、「そうか決まったのか、どれにするんだ?」と嬉々としてディルムッドが聞いてくることは容易に想像できたはずなのに。
「ええと……」
 予想に違わずそう口にしてきた彼に応えるべく、一度背を向けたその傘コーナーにもう一度向き直り、じい、と視線を送る。そしてウムと頷き、柄を手に取ってひと思いに抜き取った。
 それは、先ほど手にしたライオンの愛らしい傘……
「これだ、これにする!」
 ……では、なく。
 その手前に置かれていた、黒い男性用の傘。
「それ……でいいのか? それは男性用のもので、些かお前には大きいように思うが」
「何を言う、大は小を兼ねると言うだろう。それに私たちは、基本的に荷物が大きい。このくらいが丁度よいように思う」
「まぁ、それはそうだが……」
 それでもあまり納得がいかないといったディルムッドの横で、「なんでもいいよ、決まったんならさっさと会計してこい」、と塾の時間を気にするウェイバーが急かす。普段ならわかっていると言い返すところだが、今回ばかりはその催促がありがたかった。これ以上彼に訝しがられると、いかにアルトリアとはいえ隠しおおせる自信がない。
 剣道部の主将であり、かつランサーのボディガードを自負するこの私が、あのように愛らしいものを好むなどあってはならない。
 そうアルトリアはかぶりを振って、黒い傘を片手にレジへ向かって行った。

 先に出てるからな、とウェイバーは一人出口へ向かう。残されたディルムッドは、ふと傘のコーナーへ視線をやった。
 本当にあれが、彼女の欲しかった傘だったのだろうか。
 そんなことを思いながら順々に眺めてゆくと、先ほどの衝撃の余韻がまだ残っていたのか、ふわふわと揺れるあるものに目が留まった。
「…………?」
 柄の部分に愛らしいマスコットのついた傘だった。彼女の髪の色を思わせる、黄金の鬣を持つライオン。
(そういえば)
 ふと、思い出す。幼い頃、一緒に動物園へ連れて行ってもらう度、必ずアルトリアが走って向かう場所があった。焦らなくてもそれは逃げない。そう宥めても、彼女は止まらなかった。
『城へ来たからには、まずは王に謁見しなければ!』
 ライオンは百獣の王。この動物園を一つの王国、一つの城というならば、彼が治める王に他ならない。私もいつかああなりたいのだと。きらきらと瞳を輝かせていた。
「もしかして、あの時……」
 これを、手に取って眺めていたのではなかろうか――?
 ちらりとレジの方へ視線を向ければ、こちらに背を向けて定員に傘を手渡し金を払っているところだった。静かに傘立ての中からその傘を引き抜いて、広げてみる。真上に広がる鮮やかな黄色。アルトリアの身長、背格好、そして荷物の量からしても、このくらいの大きさが適当ではなかろうか。何より柄も骨も頑丈で、しかし軽い。
「――――フッ」
 静かに閉じて、パチンと紐を閉じる。アルトリアがレジを終え出口に向かう姿を目の端に留めながら、気付かれぬよう後ろ手に傘を持ち、忍び足で別のレジへ向かった。

「……ん? ウェイバー、ランサーはどうしたんだ」
「え、お前ら一緒じゃなかったのか」
「レジへ向かったのは私一人だ。てっきり、あなたといるものだと……」
 音を立てて開く自動ドアを潜り抜けて、すぐ左にウェイバーの姿を確認したアルトリアは、あるはずの姿がないことに首を傾げた。あの時彼らの元を離れたのは自分一人だし、ウェイバーは外で待っていると口にした。
 確かにディルムッドはどこで待つ、というようなことを言っていなかった気がする。しかし、二人に黙ってどこかへ向かう、あるいは先に返ってしまうといった行動をとる男ではないことは、十分承知していた。
 もしかして、私がレジを終えるまで先ほどの場所で待っていてくれていたのだろうか。だとしたら、申し訳ないことをした。すぐに迎えに行かなければ――。
 そうアルトリアが踵を返そうとしたところで、再び先ほどの機械音が鳴り響いた。
「すまない、待たせたか」
 中から出てきたのは、これより探しに向かおうとしていた尋ね人、ディルムッドその人だった。
「……私を待っていたのではなかったのか?」
「ん? あ、いや、そうではない。すまん、完全に私用だ」
「む。……私に隠れて一体何を探していたんだ」
「隠れて、というのは心外だな。お前がレジへ向かった後、ふと思い出しただけにすぎん」
「どうだか」
 完全に拗ねたような顔つきでぷいとそっぽを向くアルトリアに、ディルムッドは溢れかけた笑いを噛み殺す。この少女は幼い頃から、ディルムッドが彼女に何か隠し事をしようとすることをよしとしないきらいがあった。
『親友である私にも、言えないことなのか』
 そう言われてしまうと、弱い。おかげでこれまで一度も、サプライズだとかそういった催しが成功した試しがないのだ。
「まぁそう拗ねるな。……そうだな、俺も欲しい傘があったことを思い出したのだ」
「欲しい傘?」
「ああそうだ。これだ」
 丁寧に包装されたそれを、ぐいと彼女の目前に押し出した。剥き出しとなった黄色の柄の先に、ビニールで包まれながらゆらりと宙に揺れる小さな王。
「これ、は……」
 アルトリアは目を見開いた。その傘は、紛れもなくあの時彼女が見て手にして広げたものと、同じもの。
「え、ランサーお前、これがほしかったの?」
 後ろから訝しげにウェイバーが覗き込む。それはごく当たり前の感想だろう、なにせこのように大柄でかつ見目麗しい男が、このように子供じみた傘を所望するなどと。
「ああそうだ、可愛らしいだろう?」
「フーーン……。別に、お前の趣味にとやかく言うつもりはないけどさ……でもそれを持ってさして、登校してくるつもりか? 目立つぞ」
「ああ、承知している。だからなセイバー、」
 ディルムッドはアルトリアの空いている手にその傘を握らせて、代わりに彼女の手から彼女の購入した黒い傘を引き抜いた。男性用のその大きな柄は、ディルムッドの大きな手に吸い付く様にピッタリで。
「お前がこれを、持っていてくれ」
 逆にアルトリアの手には、ライオンの揺れる黄色い柄がピタリと吸い付いた。そんなことは、つい先ほど確認済みなのでわかりきってはいたのだが。
「次に雨が降った時、この傘をお前の為に持って来よう」
 一瞬、アルトリアにはディルムッドがいったい何を言っているのかさっぱり分からなかった。
「逆にお前は、俺の為にこの傘を持ってきてくれないか」
 しばらくぽかんとした表情でディルムッドの顔を見、やがて彼の手にあるそれと、自分の手にあるこれと、そしてもう一度微笑む彼の顔を見て、ようやく合点がいく。
 つまり。
 これは彼女のものではなく彼のもので、あれは彼のものでなく彼女のもので。
 あれは、彼女が彼に貸してあげているので。これは、彼が彼女に貸してくれているもので。
「……心得た。では次からは、絶対に寝坊をしないようにしなくてはな!」
 アルトリアが傘を持ってこないことには、ディルムッドは雨に濡れてしまうから。
 これで、この先彼女が雨に濡れることもないだろう。もちろん、他の男のジャージを着ねばならぬ事態も起こらない。
 今日一日曇りがちだったアルトリアの表情に、ようやく太陽の光が照らされる。それと同時に、暗く淀んだディルムッドの心にもまた、日差しが差し込み始めたのだった。

「……こういうの、ナントカは爆発しろって言うんだよな」
 世界を構築し始めた二人からいつの間に移動したのか、距離にしておよそ五メートルほど離れた場所でウェイバーはため息を吐く。その表情はどこか、達観していた。
「そもそもアイツ、なんで傘なくしたんだ……?」
 先ほどは上手く誤魔化された(というよりも、それ以上聞けば死を招くような気がした)のだが。ハッキリしないことには気持ちが悪い。けれど今日はもちろん、この先もその真実を聞きだす良いチャンスに恵まれることはあるのだろうか。応えは否、ないだろう。
 いっそ他の誰よりも距離の近いディルムッドから上手いこと聞き出してもらうという手もあるが、彼はむしろアルトリアの味方である。彼女の不都合になるようなことに、進んで手を貸すようなことはしないだろう。彼女が気まずそうにすれば、即自ら手を引く。そんな男だ。
(まったく、このままこっそり消えて塾へ向かうとするか……っと)
 踵を返し、一歩足を踏み出した、その時。不意に目の端へ、見覚えのある鮮やかな青が飛び込んできた。
「……は?」
 曲がり角の陰から覗く、生地の端。そっと二人から離れてその場所に向かえば、徐々に耳に届き出す、か細い子猫の鳴き声。
 空より現れし侵略者どもから段ボールで出来た城をかばうように、それは立てかけられていた。間違いない、これまで何度も目にしたことがある。
 これは、アルトリアの傘だ。
 小間と城壁の隙間からそうっと覗けば、生まれたばかりなのだろう小さな子猫が三匹、柔らかそうな毛布にくるまれ箱の中に入れられていた。隅には、皿にミルクが注がれ置かれている。
(捨て猫……)
 いったい誰がこんなひどいことを、と唇を噛む。
 ウェイバーの家では、子猫たちを飼うことができない。アルトリアの家もペットは禁止だった気がする。ディルムッドの家然りだ。
 だから、いたずらに触れ、優しくすることは許されない。自分にとっても、また子猫たちにとっても、悲しい結末しかもたらさないから。
 けど。
(…………)
 ウェイバーはその場に座り込み、傘をそっと取り払い静かに畳んだ。子猫たちは虚ろな瞳でこちらを見つめはするが、それ以上動く気配はなかった。
 二本の傘を腕にかけ斜め掛けにしていた鞄を後ろへ回し、両手で段ボールの箱を持ち上げる。皿からミルクが零れないように、慎重に。
 そして、塾とは真逆の方向へ。ウェイバーは静かに、しかし早足で帰路についた。

   * * *

 翌朝。アルトリアとディルムッドが教室に到着すると、すでに登校していたウェイバーが、何やら真面目な顔をして机と向き合っている。手には、太めのマーカー。机の上に敷かれているのは目立つ色の画用紙。
「……猫を拾ったんだ」
 その言葉に、アルトリアの顔は見る見るうちに輝きだす。
「里親を募集する。お前らも手伝えよ」
 未だ事情を掴めないでいる親友を余所に、アルトリアは大きく頷き、そして勢いよくウェイバーへ飛びついた。離せ、ばか、僕を殺す気か! などと叫ぶウェイバーの視線の先に、何やら物騒な雰囲気を醸し出す男がいたとか、いなかったとか。

 結局三匹の子猫たちは、同じ高校に通う栗色の長い髪を持つ少女によって引き取られ、それぞれネロ、タマモ、アーチャーと名をもらい大切に育てられたらしいことは、また別のお話。








仲良し三人組。三人の距離感はこれくらいがすきです。ウェイバーちゃんかわいい。
meg (2013年5月29日 09:27)
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