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 リクライニングソファに身体を沈めて、春歌は大好きなキャラメル味のポップコーンを口に入れた。
 もぐもぐと顎を動かせば甘味と塩味が丁度良いバランスで混ざり合い、思わずニッコリと微笑んでしまう。美味しいものを口に入れた時のお約束だ、どうにもこればかりは治りそうにない。
 料理を得意とする者にとっては、その顔が何よりも褒美なのだからやめる必要はないと言ってはくれるけれども。しかし、やはり当人にとっては恥ずかしい癖であると思わずにはいられなかった。
 周囲は見回すまでもなく真っ暗で、人の数もまばら。時計の針は……この暗さに慣れた今でも、目視で確認することはできない。携帯電話も電源を切って鞄の中にしまってある。非常灯も消されてしまっているため、結局のところ今は確かな時間を確認する手段がないということだ。
 だが、近い時間を推定することは出来る。春歌は二十一時開始という、一番遅いレイトショーのチケットを購入し指定のこの場所へ来た。物語が本格的に始まってからおよそ一時間ほどは経過しただろうから、つまりは二十二時前後、といったところだろうか。
 そう、ここは映画館の中のとある一室。スクリーンがよく見えるように、丁度真ん中あたりの席を指定した。映像が映し出されているスクリーンには、今春歌のとてもよく知る人物が中央に立っていた。
 その人物の名は聖川真斗。
 早乙女学園を首席で卒業し、そのまま早乙女事務所からデビュー。歌手活動の他に俳優としても売出し中の、今最も波に乗っていると口にしても過言ではない人気アイドルである。
 そして、付け加えるならばもう二つ。
 春歌もまた早乙女事務所に所属しており、彼女の書いた曲はほぼ全て聖川真斗が歌っている。つまり二人は事実上のパートナーであり、そして、恋愛禁止という鉄の掟が敷かれた事務所内において、唯一の例外が認められた恋人同士、であった。
 さて、現在上映中の映画についてだが、物語はこうだ。
 時代は昭和、戦争が始まりその苛烈さが一段と極まってきた頃の話である。周囲の若者が一人、また一人と赤紙が届き戦地に赴く中、主人公である青年はただ一人、ある重要な地位に就く政治家の息子であるからか勅命から逃れ、苛まされる日々を送っていた。無論各方面からもそういった声は彼の耳に入ることになり、外へ出かけることを恐れ、屋敷に籠り毎日をピアノを弾いて過ごす様になる。
(ピアノを心の拠り所にする、政治家の息子役……)
 ズズ、とあまり音を立てぬようにストローから飲み物を吸い上げて、本人がどう感じているかはわからないがとてもピッタリの役だなと春歌は思った。特に他意はなく、ただ純粋に。
 そしてある日のこと。どうしても屋敷を出なければならない用事ができ、恐る恐る屋敷の外へ飛び出した。その際もうひとりの主人公であるヒロインと出会ったことから、ようやく彼の物語は幕を開ける。閉じかけた彼の世界に、暖かな光が射しこむのだ。
 ストーリーを楽しむことはもちろんだが、春歌の視線は常に真斗へ注がれていた。役者としての、真斗の表情、一挙一動を逃さぬように、常に見つめ続けている。そのおかげで、時折他の出演者の心情などに気が付けないこともあるが、それは後で直に主役本人から解説を聞けるのでよしとしよう。
 物語は終盤に差し掛かっていた。ついに、それまで避けられていた真斗……青年の元へ赤紙が届いたのだ。ヒロインと逢瀬を重ね、ようやく心を通わせようとしたその瞬間のことだ。よくある話、といえばまぁそうである。が、しかしやはり不憫に思わずにはいられない。もしかすると、学園に通っていた頃の彼と自分とを重ねてしまったのかもしれないが。
(でも、あれは私たちにとっては必要なことだったから)
 むしろあの期間があったからこそ、今の自分と彼があるのだと思う。在学中以外にも何度か彼と距離を置かれることはままあったが、その度にお互いにはお互いが必要だということを痛感させられた。どんなに離れても、結局はまるで磁石のように再び引かれあった。
 しかし、彼らにとってはどうだろう。戦地で行われるのは命の遣り取りだ。彼が無事に彼女の元へ帰って来られる保証などどこにもない、むしろゼロに近いかもしれない。
 ついに物語はエンディングへ向けて走り出す。彼らがどのような選択をおこなうのか。二人はどうなってしまうのか。
(……もし、私たちがそうなったら?)
 盛り上がりを見せ始める映像を瞳に映しておきながら、春歌の意識は結末へ向かわずただ一つの疑問を追いかけはじめた。
 そんなことを考えるだけ無駄なことはわかっている。しかし、考えずにはいられなかった。
 悩みの種が一つできると、それ以外のことが全く頭に入らなくなってしまう春歌の悪い癖。本日はここでそれが発動してしまった。
 劇中で描かれる彼の麗しい軍服姿や大好きな指先でピアノの鍵盤を奏でるシーン、そして、平静を装ったまま目にすることができるだろうかと最も恐れていた濃厚なキスシーンについても、最後まで春歌の脳髄には何も響いてこなかったのである。

   * * *

 終演後、映画館のエントランスからふらふらと出ていくと、ファン、と控えめなクラクションの音が耳に届いた。音の発信源を探そうと視線を走らせれば、駐車場の中の、一番映画館に近い場所停められた青のレクサスが目に入る。
 聞き間違えるはずも、見間違えるはずもない。
 それは、つい先ほどまでスクリーンに身を映していたあの青年……真斗のものである。
 窓ガラスが開かれるよりも早く、春歌はその場所へと駆け寄った。運転席に座るその人は、目元の見えないサングラスをかけ、特徴的な髪の毛はアメリカピンで留められながら全て後ろへと流されている。この人がそうだと知られることはなさそうだが、普段の彼には見られない、醸し出される異様な色気にむしろ別の心配をしなければならないのではないか、と目にする度に春歌は思う。
 とにかく春歌は急ぎ助手席のドアを明け、手際よく身体を中へ滑り込ませた。シートベルトの留め具がカチリと音を立てて彼女の身体にはめられたことを確認すると、運転手はエンジンをかけアクセルを踏む。機械へ料金を支払い無人の駐車場を出て、他に車の影の無い公道を悠々と走り始めた。
 流れる街灯の灯。藍色の空に散りばめられたいくつもの星屑。風に揺れるポプラの並木。迎えに来てくださってありがとうございます、といつも通り一言礼を述べた後は、無言でそれら車窓の風景を眺めていた。そういえば先ほどは、上手く笑えていただろうかとほんの少し不安に思う。すると、
「……うかない顔をしているな」
 あくまでも優しい声色で、隣りの運転席で今まさに運転を行っている真斗が語りかけてきた。え、と驚いた顔をして思わず彼の方へ体を向けると、真斗は苦笑しながら、赤い信号の前にブレーキを踏んだ。
「全く、お前の素直さには脱帽せざるを得んな。上手く隠せていると思っていたのなら大間違いだぞ」
 特に俺の前ではな、とサングラスを外す。何処までも優しい、夜の海を映したかのような瞳の色。渡る人のいない横断報道を目の前に、春歌はまるで表情を隠す様に、被っていた帽子を頭から外して顔にかぶせた。
「やはり、あのシーンは辛いか」
 ふぅ、とため息を零して、サイドで揺れる春歌の髪をハンドルから離した左手で掬う。
「……え?」
 何一つ言葉を漏らしていないのに。まさかこの表情だけで全てを知られてしまうとは、彼はエスパーか何かなのだろうかと耳を疑った。が、
「俺も未だに抵抗がある。お前以外の女性以外とせねばならぬとは、やはり苦痛でしかないからな。口づけだけではない、抱擁も然りだ」
 どうやらそれはただの杞憂であったらしい。というよりも、むしろ厄介な思い違いをしているように思われる。
「は、え、あの」
 掬った髪を梳いていた左手で、今度は春歌が両手に持った帽子を抜き取った。そしてそのまま長い腕を後ろへ回し、後部座席に座る大きなクマのぬいぐるみの頭へ被せてしまう。これは、真斗の妹、真衣専用だ。時折車に乗せることのある真衣が目を擦らせたりした際の、よい友人なのだ。
「だから俺は、さもお前としているかのように、お前のことを考えながら、相手の女性にお前を重ねて行うようにしている。……もっとも、相手にとっては失礼な話でしかないだろうが」
「いえその、ですから、あの」
「だが、信じてくれ!」
 ぐいと距離を詰め、切ない瞳で春歌の両目を射抜いてくる。その瞬間、百メートル先まで聞こえているのではないかと思えるくらい心臓は大きく高鳴り、それは反則です! などと春歌は心の中で大きく叫んでいた。しかも今回は、前述したとおりの異様な色気のオマケ付き。ついついくらりと靡かない、わけがない。
「俺にとって、口づけを交わしたい相手はハル、お前だけだ。お前以外は必要ない。あのような場面を見た時は、どうか俺の口からでる台詞は全てお前の為だけに向けられたものとそう信じて……」
 情熱的に愛を語りかけてくる真斗に対し、今絶対に、私の顔は真っ赤です。そう自ら自覚することが出来るくらい脳みそは茹で上がり、頭を流れる血液が沸騰していることがよく分かる。よく分かるし、徐々に顔を近づけてきた真斗がこの後春歌に何をしようとしているかだって容易に想像することができる。
 だが、しかし。普段ならば何だかんだと言って許してしまう春歌も、今回に限ってはその行為をこのまま続けさせてやるわけにはいかない。
 何故なら。
「ま、まま、真斗くんっ!」
 春歌はあらんかぎりの誘惑に抗う力を振り絞る。ここは公道、なにより――
「真斗くん、信号が青に……!」
 このような幅の広い道では大抵、横断歩道にかけられた信号の色の移り変わりは早いものである。
「…………ああ」
 その言葉に、真斗はちらりと視線だけをフロントガラスに向けて状況を確認すると、いかにも不服であるといった声をその薄い唇から紡ぎだし、そして素早く顔と手を引っ込め再びハンドル操作へと神経を集中させ始めた。
 春歌は、一時的であるとはいえまずは自分にとって限りなく不利な状況を打破できたことに安堵する。続いてフロントミラーに自分の口元が映されていないことを視線を動かさぬように確認すると、真斗に気取られぬよう密かなため息を吐いた。
 いや、真斗の名誉のため断わっておくと、春歌は彼にそうされることが嫌だったわけではない。普段ならばむしろ嬉しく思うだろうし、状況が状況でなければあのまま続けてほしいとすら願っただろう。
 だが今回に関しては。お互いのベクトルが合致していない状態のまま、ことを進めてほしくない。その思いが、あの状況で普段なら発揮されることのない抗力を彼女が編み出せた要因かと思われる。
 無論、真斗がそう勘違いをしてしまうのも無理はない。
 事実この映画を見ようとする春歌に対し、真斗は最後まで浮かぬ顔をしていた。春歌以外の女性と行う、しかも極めて情熱的なキスシーンを何が嬉しくて恋人である春歌に、しかもよりによって大きなスクリーン上で目にしてもらわねばならぬのか。……もっとも、俳優としても活躍する以上避けては通れぬ道なので、それについてはどうこう言っていられないのだが。
 春歌自身はというと、彼ほどではないがやはりキスシーンに対して耐性ができたわけでもなく、それを目にした時の自分について若干の不安は抱いてはいた。が、初めて目にするわけでもないし、それ以上に自分の見たことのない真斗が出来てしまうということが嫌なので、ある程度相応の覚悟はできていた。
 実際のところ、該当のシーンは何事もなく無事通過できたので、今回については真斗の指摘は当てが外れたといえる。というよりも、それ以上の問題が春歌の身に起きて、それ以外のことに考えが及ばなくなった、という事実に過ぎないが。
 戦争という名の、どうしようもない時代の渦に引き裂かれた恋人同士。
(もし、また再びこの国でそんなものが始まったとしたら……)
 ちらりと、万が一の事態も引き起こさぬよう懸命にハンドルを操作する真斗の横顔を盗み見る。時折すれ違う、反対車線を走る車のヘッドライトが肌を滑り、その度に光る瞳はまるで星が煌めくようで美しい。
(私は、この人を永遠に失うかもしれないという恐怖に耐えられる……のかな)
 あの映画のヒロインのように。出立の前日にやっと心からの想いを確かめ合い、音楽を共に奏でて心を通わせて、その美しい思い出を胸にこれからも彼を想い続けて生きてゆこうだなんて。涙を堪え、笑顔で彼を見送るなんて、そんなことが私に出来るだろうか。

 二度と感じることのない体温。二度と触れることのない指。二度と目にすることのない微笑み。

 二度と耳にすることのない、うた――――。

「…………ない」
 つぅ、と。
 映画を見ている最中も、各所からすすり泣きの聞こえた終演後も流れることのなかった涙が、
「ハル……?」
 ここへきてようやく、頬の上を滑っていった。
「でき……ない……。できません、まさとくん……」
 一度滑りだしたら止まらない。違う、別に涙を流したかったわけではない……のに、ぽろぽろと主の意に反して零れだす無数の雫。
 気が付けば、右手はぎゅうと真斗の左手二の腕を掴んでいた。真斗は、一瞬身動ぎはしたがそれを運転中だからと振り払うことをせず、そのまますぐさま脇道に入り二度ブレーキランプを点滅させて車を停車させた。そして素早く自身のシートベルトを外し、覆いかぶさるように春歌へ己の身体を向き合わせると、右手の親指で涙を拭う。ハル、と優しく頬を撫でながら。
 その優しさに触れれば触れるほど、涙はむしろ溢れかえる。そのうち春歌は自ら腕を真斗の首に回し、引き寄せ掻き抱いていた。離れたくない、離したくないと懇願するように。
 真斗は黙ったまま、そっと春歌のシートベルトを外し両手を背中に回してやった。ぽんぽん、と優しく背中を叩き、そのままさする。まるで幼子をあやすように。
 噛り付く様に顔を首筋に埋めて、すぅ、と何度も何度も春歌は深呼吸を繰り返した。彼が今確かにここにあることを、そしてそれは永続するのだと言うことを確認するかのように。撮影、そして打ち合わせの後だからか、ほんの少しの煙草と、いつもと同じ爽やかな檜の香りが春歌の鼻腔を支配した。
 しばらくして、ほう、と口からぬくとい息を吐く。それは、ようやく落ち着いてきたという合図だ。止むことなく流れ落ちていた涙も、徐々にその速度を緩めていった。
 もう大丈夫です。
 と、そういうつもりで首に回した腕の力を緩めると、今度は背中に回された腕にぎゅっと力が入る。
 まだ、このままで。
 口にせずとも、そう言われた気がした。
「……俺も、同じことを思った」
 真斗の目に届かぬところで、春歌は瞼を瞬かせる。同じこと? まだ何も告げていないのに? もしかすると彼はまだ、キスやハグのことだと勘違いしているのだろうか。
「想像してしまったのだろう? 映画の二人は戦争によって引き裂かれる。真にもう二度と、会えぬ可能性の高い別離だ」
 ドキリ、と心臓が高鳴った。言葉にして伝えるまでもない、きっとこの鼓動は触れ合った場所からすでに伝えられているだろう。確かに同じことを考えていた、それが答えだ。
「二人はそれを運命と受け入れ、互いの想いを通わせた。……だが俺には、どうしてもギリギリまで彼らの考え方を理解できなかったのだ。出会えた奇跡、通い合った二つの心。戦いに赴くということは、そこで自ら運命に幕を閉じるということ。そしてそれは、相手の女性についても同様だ」
 回された腕に、さらに力が込められる。その指先は、震えていた。
 真斗も、春歌と同じく想像してしまったのだ。もし映画の状況が今二人の身に起きたとしたら。必ずや引き裂かれる運命の前に立たされたとしたら。
 もしかすると、春歌がこの映画を観ることについて真斗があまりよい顔をしなかったのは、キスだけのことではなかったのかもしれない。本当はこのことがその要因を多く占めており、しかしそれを口にすることは憚られて。口にした途端、それが真実となってしまいそうで、怖くて仕方がなかったのかもしれない。
「ハル、お前には出来るか? 誰の力を持ってしても、それこそ神に縋ったとしても覆されることのないだろう、避けようのない別離が待ち受けているにもかかわらず、愛を口にする勇気はあるか?」
 真斗の言葉を耳にしながら、春歌は彼の素性を欺かせているアメリカピンを一本一本丁寧に外していった。春歌のよく知る、本当の彼に出会いたかったから。交差した二本のピンを外すたびに、サラサラと音を立てて流れ落ちる群青の髪。彼の声が言葉全てを紡ぎ終えると同時に、全ての工程が終了した。目の前で、自由となった毛束が嬉しそうに風に舞う。
 今度こそ首筋から顔を離し、真正面から向かい合う。真斗の瞳に映る自分の顔は、さぞ涙に腫れてひどいなりをしていることだろう。少し恥ずかしく思いながらも、しかし春歌は彼の双眸から目を離せない。
 同じだと、思った。懐かしいあの時と。
 学園に通っていた頃の、クリスマス。あの日あの晩と、同じなのだと。
 確かに条件は違う。想いさえ捨てれば、アイドルとその作曲家として、単なるパートナーとして共に歩いてゆくことは可能だったあの時と。
 映画では、口にしても黙っていても、この両目から彼は消えてしまう運命であった。だったらこの先残されているだろう長い時間、死ぬまで一人で生きてゆくにしろ、あるいは他の誰かと手を取り合い共に歩いてゆくにしろ、想いを口にしない、伝えない方が利口なのだろうか。
「……わたし、は」
 答えは、否。
「きっと想いを告げていたと……思い、ます……」
 電灯一つない暗いはずの夜道、暗いはずの車内でも、彼の息を飲んだ顔がよく見える。春歌は真斗がよくそうしてくれるように、絹のように滑らかな髪を梳いた後、端正な顔の線を両手の指の腹でなぞっていった。
 ああそうだ、月だ。今宵は満月、だからこんなにも彼の顔がよく見えるのだ。
「それでもし、私と同じ気持ちを抱いてくれていたとしたならば……。私は別れる最後のその瞬間までと言わず、生きている限りずっとずっとその方を……真斗くんを愛することを、想うことを止めたくないと思います」
 本心なんです。私は最後の最後まで、この気持ちを封じ込めてなかったものとしたまま、あなたとお別れすることなんてできそうに、ありませんから。そんなこと、したくありませんから。それに、だって
「だって真斗くん、言ってくださいました」
 形のよい眉が垂れ下がり、今にも泣いてしまいそうな顔をしている。
 溢れてなどいないけれど、先ほど真斗が春歌にそうしたように、春歌は親指で目じりを擦り、引っ張ってやる。笑ってくださいと、ほら胸を張ってくださいと伝えるように。あの日、ああ言い放った時のように。
「恋愛は禁じられても、愛情まで禁じられた覚えはない」
 後悔はしたくない。自分の気持ちに嘘をつきたくない。捉え方によっては、どちらも大変独りよがりで勝手な言い分にすぎないだろう。でももし二人が同じ気持ちを胸に抱いていたならば。心の奥底では、互いの想いを通わせたいと願っていたならば。
 たとえそれが最後の時となろうとも。一瞬でも繋がることができたなら。それは二人にとって、永遠の力となるはずだから。
 けれど。
「ハル……」
 我儘を口にしていいのなら。
「でも、やっぱり……真斗くんが、私の側からいなくなってしまうのは……いや、です……」
 暖かな体温を知ってしまった。美しい指先の形を知ってしまった。心安らぐ微笑みを知ってしまった。
 その声でしか奏でられない歌を知ってしまった。
 月の光の下、輝くその存在を知ってしまったから。
 止まったはずの涙が今再び溢れ出す。ああそうだ、こんなにも、こんなにも真斗への想いが大きすぎて。すでに七海春歌という存在は、聖川真斗なしでは存在できない生物に成り下がっている。
 なぜなら、ほら。ただ"もしも"のことを考えただけで、これほどまでに思いは外へと溢れ出す。不安で手足が震え、胸は押し潰されそうになる。
「真斗くんと離ればなれになるなんて……」
 あなたが二度と、私の名を呼んでくれないなんて。
「今の私には、もう絶対に、耐えられませ……っ!」
 抑えることなどできない、溢れる思いのたけを思いきりぶつけようとした。
 ――刹那。
 全てを言い切る前に、突如振ってきた柔らかな唇によって春歌のそれは塞がれる。
 台詞の続きを紡ぐことはもちろん、息を吸うことも許されない。上唇を食み、下唇を食み、重ね合わせて舌と舌すらも絡ませ合う。合流する少し前まで、キャンディーでも舐めていたのだろうか。少し酸味のある、しかい甘い味がした。
 その先はもう何も考えることが出来なかった。ぶつけようとした思いのたけも、思考回路も、見る見るうちに蕩けてゆく。まだ夏には遠い、春歌と同じ名の季節であるはずなのに、この空間だけあっという間に温度が上昇していって、まるで一点のみで繋がれた二人がどろどろに溶け合い一つとなる感覚すらあった。そのような行為には至っていないにもかかわらず、だ。
 一分にも、または永遠にも感じられる非常に短くて長い時間。ようやく息を漏らし唇を離した頃には、お互いのそれは熱で薄紅色に色づいていた。真っ先に視界へ飛び込んだのは、月の光を反射する透明な一本の線。
 どちらともなくくすりと笑った。そして今一度、今度はただ触れ合うだけの口付けを交わす。顔を離した時には、当然ながら目に見える架け橋はどこぞかへ消え去った。だが、より一層強固な目に見えぬ不思議な糸が、再び二人を繋ぎ直したように思えたのだ。
 蕩けかけていた瞳で真斗の顔を見やれば、意外なことにその双眸の海は静謐さを保ったままだった。むしろ真剣な決意を孕んでおり、それを受けて春歌の意識は徐々にその形を取り戻してゆく。
 しばらくの間を置いて、つい先ほどまで火傷しそうなほどの熱を持って乱暴に愛を注ぎ込んできた唇は、一変して冷静に、かつ慎重に動き始めた。
「……大丈夫だ、絶対に離さない」
 そう、春歌に誓いを立てるように。己自身に確かめるように。
 真斗の言葉を耳にして、春歌は言いようのない何か特別な感情が胸に沸き立つ感覚を覚えた。その正体はよく知っている、つまり"幸福である"といった感覚だ。
 しかしその反面、彼には少々申し訳ないが、頭のどこかで薄らぼんやりと、「どうだろうなぁ」なんて思いも浮かび上がった。なぜならそんなことを口にしておきながら、真斗が自分の元を去ろうとしたのは一度や二度ではないのだから。
 よって、
「…………うそ」
 などと口にしてしまっても、それくらいのいじわるは許されるだろうか。――まぁ、回答を得るよりも早く声が口から出てしまったが。
「う、嘘なものか! ……あ、いや、確かにこれまでのことを考えると、お前が怒るのも当たり前ではあるのだが……」
 案の定心当たりがあるのだろう(というより、無いとは言わせない)彼は、予想だにしていなかった春歌の言葉を耳にした途端に慌てだす。ああ、これは相当後悔しているのだなと知るには十分な反応だった。
 そのせいで、うっかりと。笑い声が口を突いて出る。
「ふふっ」
「っ! わ、笑うところではないだろう……」
「あはは、すみません……でも、大丈夫ですよ真斗くん。うそですから」
「ど、どちらがだ……」
「どちらもです」
 真斗は春歌の言葉を耳にするなり、さらに困惑したような顔をして彼女を見た。その表情はいかにも捨てられようとしている子犬を見るようで、春歌は先ほどよりも大きな声で笑ってしまう。ああもう、可哀そうなことに顔色はその髪の色よりも青くなってしまっていた。
「真斗くん」
 すっかりと冷えてしまった頬を両手で包み込む。
 大丈夫。だってそれも、うそですから。
 本当は、怒ってなんてないんですよ。なぜなら私は、いつだって結局真斗くんが戻ってきてくれたことが嬉しくて、その時に感じた悲しみは全部吹き飛んでしまうんです。
「……真斗くん」
 大丈夫、信じています。信じています、が、お願いです。
 例えあなたが私の手を離しても、もう一度あなたの手を繋ごうとする私を振り払うことだけはしないでください。
 そうすればきっといつまでも、いついつまでも。例え何があろうと私はあなたを追いかけていくことができるから。
「だいすき、です……!」
 なおも弁解しようと動き始める彼の唇を、思い切って今度は春歌自身の唇で塞いで見せた。すると見る見るうちに真斗の顔が血色を帯び、むしろ先ほどの春歌に負けない、まるで茹蛸のように耳の先まで赤く染まっていったことは言うまでもない。

 さて真斗は明日、久方ぶりのオフ。この後二人がどうしたかなど、それこそここへ記すまでもないだろう。



ミッドナイト
シアターエフェクト


メグさんは、
「深夜の映画館」で登場人物が「なぐさめる」、
「線」という単語を使ったお話を考えて下さい。
http://shindanmaker.com/28927








「そういえば、真斗くん」
「ん……なんだ」
 すっかり重くなった体を押し上げて、春歌は上から真斗の顔を見下ろした。真斗は意外にもすっきりとした面持ちで、春歌の頬に手を伸ばしてくる。春歌は特に避けるでもなく、むしろ自ら頬を差し出して、その大きな手のひらにすりよった。暖かい、いとしい手のひらだ。
「先ほど、"ギリギリまで彼らの考え方を理解できなかった”とおっしゃっていましたが……結局、どうされたんですか?」
「……ああ、そのことか」
 真斗は春歌の柔らかい頬を乗せた手のひらで、数回いとしいそれを撫でた。そしてむにと優しくつねった後、見る見るうちに膨れる可愛らしい春歌の顔を幸せそうに眺めながらもう片方の手を差し出して、両頬を包み、ひと思いに自身の胸へとお誘いする。きゃあ、とこれまた愛らしい悲鳴を上げはしたが、それ以降特に抵抗することもなく、大人しく二本の腕に包まれた。むき出しとなった目の前の額に、音を立てて口付けを落とす。
「こういう、ことだ」
「…………その、すみません……。意味が、よく……」
「なんだ、わからぬのか?」
 くすくすと笑う真斗の声を聞いて、もしかしてまたからかったんですか、と眉間に皺を寄せる春歌。まったく、本当にくるくると変わる表情が愛らしい。今は恐らく真斗ひとりだが、他の者も等しく彼女に溺れる可能性があったのだと思うと、今更ながら恐ろしくなってくる。
 けれど、今彼女の隣にいることを許されているのは、間違いなく真斗、ただ一人。このことはあの雪の日から……いや、きっと遠い昔から運命づけられていた。
 そう、もしかしたら。来世こそ二人で幸せになろうと、そう誓い合った日があったかもしれない。
「帰って来れると……また二人は必ず一緒になれると、信じることにしたのだ」
 運命によって心を通わせた二人が、運命によって引き裂かれるなどあってはならないことだから。あれは、こうして二人が一つになるための、試練の一つなのだと思うことにした。
 そう告げると、それまでしおらしげな表情で真斗の言葉を聞き入っていた春歌は微笑んで。
 でしたらきっと相手の女性も、再び巡り会える日を信じることで、幸せな日々を過ごしてゆけるのではないでしょうかと頬へ口付けをくれたのだ。








書き終えてから、「深夜の映画館」でなぐさめないといけなかったことに気が付きました。
真斗くんの白い想いを溢れさせようか微妙に悩んだ作品。溢れさせないでヨカッタ。
meg (2013年5月31日 11:43)

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