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鰓持たぬ魚



 最初は腕だった。
 赤く爛れた皮膚。生々しい痕が縦横無尽に駆け回っており、思わず目を瞑りたくなる。そっと触れると、まるで火に炙られた石のようにじりじりと熱を発していた。
 次に気になったのは、呼吸音。僅かに開いた戸の隙間から、ひゅう、ひゅうと吹き込む風のようでひどく心細い。少しでも戸を締めればとたんに風が止むように、少年の呼吸も聞こえなくなってしまうのではないかと大変心細くなった。
 最後に目に飛び込んできたのは、青々とした美しい鱗だ。水に浸されでもしたように、滑らかな潤いを持ちほんの僅かな光でさえも反射する。
 どうせなら魚のように、口ではなく鰓《えら》から呼吸かできれば良いものを。叶えばどれほど楽なことか、全く以って話にならん。少年は自らの身体をそう批評した。
 慣れない肉体労働で筋肉痛を訴える少年の、棒切れのように細い足を癒してやろうと開帳を命じれば、最初は結構だなどと素気無くされ取り付く島もなかった。それでもなお引き下がらずにいると、まぁ丁度良い機会なのかもしれんなと息を吐き、やがて自ら足を差し出したのだ。
 私は目にしたとたん、絶句した。そうら、これがお前たち読者による風評被害というヤツだと少年は半ば自嘲気味に、大変皮肉たっぷりの声色で口にする。けれども私は返す言葉が見当たらず、ただただひたすら見入っていた。
 何故人間の足に鱗が? と最初こそ混乱はしたが、やがて私の思考回路は一つの結論に収束されてゆく。

 ――――ああ、綺麗だなぁ……

 心の中で呟いていたはずの言葉を、無意識のうちに口にしていたのだと知った時。慌てて顔を上げると、少年は何とも表現し難い表情で私をじっと見つめていた。

(バカだ)
 傷付けた、のかもしれない。
 当たり前だ。少年はこの事実を、全く持って良しとしていないのだから。
 だって、普通に考えたらそうだろう。腕は酷い火傷だらけ。言葉を発しようとすれば、喉に突き刺すような激痛が走る。両足には全てを埋め尽くさんとする魚の鱗
 それが、どれだけ本人にとって辛いことか考えもしないで。
 手にした毛布をぎゅうと握りしめた。小皿に垂らされた油の上で、小さな灯火が煌々と揺れる。
(私は、本当に…………バカだ)
 少年は、机の上で突っ伏したまま眠りの淵に落ちていた。相変わらず、途切れることなく聞こえてくる呼吸音に胸を撫で下ろす。頭と腕とで邪魔をされて覗き見ることは出来ないが、枕の代わりに敷かれているのは彼が常に携えている分厚い本《ほうぐ》。中は白紙で、これから彼の手により物語が刻まれてゆくのだと言っていた。

『とはいえ、それは貴様が俺をその気にさせることができたらの話だがな!』

 握りしめた手から力を抜いて、当初の予定通りそっと小さな背中に毛布を掛ける。
「資格なんて、ない……」
 今日一日、慣れない戦いを勝ち抜いた英雄を讃えるために。今日一日、私をあらゆる敵から護り抜いた英雄を労うために。
「あなたに物語を書いてもらう資格なんて、私にはないよ……アンデルセン」
 毛布の上から、そっと額を擦りつけた。全てを覆い隠すように、さらに大きく大きく毛布で包み込んだ。
 ふぅーー、と一際強く風が吹く。
 いつの間にか灯りは消えて、闇の翼は部屋の中をも支配した。



「――……まったく、この馬鹿めが」
 むくりと上体を持ち上げた。床へ重力のままに滑り落ちようとする毛布の裾を、そうなる前に引っ掴む。
 ふわぁ、と欠伸を小さく零したあと頭を掻いて、真後ろへ向けて半身を捩った。
 霊体と化した身体とは、こういう時に便利なものだ。目的の人物は一秒も無駄にすることなく目に入る。
 教室に並べられている机を縦に二つ分ほどの距離を置いて、少女は床に腰を落ち着けていた。冷たい壁に背中を預け、固く瞼を閉じている。薄い胸は一定のテンポで上下に動き、前へ流れ落ちた髪の束はほんの僅かに揺れていた。
 音を立てずに椅子から降りて、出来る限り床の汚れが付かぬよう大きな毛布を手繰り寄せる。それでも結局腕から零れ引き摺ってしまう裾を見て、どこまでも頼りない身体に小さく悪態を吐いた。
「常々馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが……ここまで輪をかけて馬鹿だとは思わなかったぞ」
 足音を立てぬように一歩ずつ近づいてゆく。床に添って伸ばされた少女の細い足先まで辿り着くと、毛布を抱きしめたままゆっくりと膝を折った。間接に鈍い痛みが走る。けれど、部屋へ戻ってきた当初に比べれば大分軽い。
「まったく、とんだ思い違いも甚だしい。だいたいな、肉体労働を嫌うこの俺がお前に協力してやっている時点でなにかしらあると思わんのか」
 柔らかく伸びた栗色の長い髪に手を伸ばし、そっと触れて引き寄せると、隠されていた少女の表情が露わとなる。すぅ、すぅと聞こえてくる穏やかな寝息と緊張感に欠けた頬。しかしその裏で、瞼を縁どる長い睫は若干湿り気を帯びていた。
 もう片方の手を伸ばしかけて、やめた。別に、目を覚まさせてしまうかもしれないから、だとかそういう理由ではない。ただ、なんと言うか……少女の涙を拭うには、些かこの指は短すぎる、と思ったまでだ。
 少女の目の端で、ぷくりと小指の腹に乗る程度の大きさにまで育った透明なガラス球が揺れている。もう十分、滑り落ちてしまってもよい頃合だというのに、いったい何をそんなに粘っているのか、まるでそうする気配を見せないでいた。
(まったく、お前はそんなところまで意固地なのか)
 せめて眠っている時ぐらい、気を緩めてしまって良いだろうに……。
 手にしたままでいる少女の髪を、何となしに半分程度を風に流した。サラサラサラ、と音を立てて手のひらから滑り落ちてゆく。その様は、後ろ髪を引かれているように、まるで離れがたいと訴えているようにも思えてとたんに胸が熱くなった。
 だから、残りの髪は流さなかった。変わりに、そっと顔を近づける。もう少しで触れるといったところまで近づくと、ほのかに石鹸の香りがした。無色透明な、これから何色にも染まるだろう素朴な匂いだ。
「――――安心しろ。俺は、物語など書かん」
 ひくり、と床に放りだされた細く白い指先が反応する。
 何故だと? そんなわかりきったことまで俺に聞く気か、馬鹿め。人に聞いてばかりではつまらんだろう、たまには自分の足りない頭で考えてみるんだな。
 チッ、と小さく舌を鳴らした。今度は風に流す、などというまどろっこしい真似は止めて、ひと思いに残りの髪の毛を解き放つ。抱えていた毛布を苦心して広げ、制服のまま上に何もかけずに寝入る少女の身体へ素早くかけてやった。
 打ち立てた計画を全て終え、すっくと静かに立ち上がる。そのまま元の机へ立ち去ろうと踵を返しかけて、足を止めた。

『――――ああ、綺麗だなぁ……』

 今度の舌打ちは気持ち良いくらい部屋中に響いた。
 体を反転させて、広がる毛布を避けるように迂回し少女に近づいてゆく。
 俺は醜い怪物だ。腕は爛れ、喉は疼き、足は鱗に覆われている。ああだがそれでいい。俺は人間など大嫌いだからな。少しでもその場所から逸脱できるのならば大いに結構。いくらでも受けてやるさ。
 だが、そんな俺を綺麗と言った少女がいた。醜い怪物の足を目にして少女は、石を投げ入れるどころかまるで水中の宝石を見ているかのように、うっとりと瞳をまどろわせてみせたのだ。
 その少女は今や、瞳どころか身体全体を夢の中へまどろわせている。
 おい、聞こえているのか。お前のことを言っているんだ。
 おい。おい――
「……おい。一度しか言わんからな」
 もう一度膝を折り、今度は腰ごと床に落ち着けて、少女がしているように壁へ背中の重心を預けた。こつんと肩と肩がぶつかり合ったが気にも留めない。むしろ更に肩を寄せ、唇を少女の耳に近づける。そして――

「ハクノ。俺は今生において、お前以外の物語など書かんと言っているのだ」

 夢の中を揺蕩う少女まで届くよう、はっきりと唇に言葉を乗せた。
 すると、次の瞬間少女の目元から。
 ガラス玉が坂道をコロコロと転がるように、大粒の涙が頬を滑り、地上へ向かって落下した。








作家女主さん。大人びた少年(というか中身は大人ですね)と年相応?な女子高生の関係ってほんと…すき……。
meg (2013年8月 8日 11:08)
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