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 このところ一週間。執務室内の空気は、これまでにないほど悪いものとなっていた。

 普段ならばどんなに忙しかろうと無遠慮に飛び込んでくるお転婆王女リズすら入室を控え、頼みの綱であるマークも今は出払っている。
 そのうち目の前からカリカリカリカリと神経質なペンの音が響きだし、もはやそれは、持ち主の心情をありありと表しているようで大変心臓に悪かった。
 ああ、マーク。今だけでいい、ほんの少しでいいから戻ってきてくれないか。お前が戻らず永遠に今の状態が続くようならば、俺は悪魔に魂を売ることすらよしとしてしまうかもしれん――。
 執務室の主であるクロムは頭を抱えて心から願う。いつもは口うるさいだの何だの文句を言っているが、この時ほど早く普段の調子に戻ってくれと祈ったことはなかった。
 目の前の机で羊皮紙にペンを走らせる女性。記憶も何もかも失った状態で、一年ほど前にふらりとこの国に現れた。クロムは一国の王子、かつ自警団を預かる団長として身柄を保護しようと手を差し出したがとんでもない。大人しく保護されるどころか一部隊、果てに一国を動かす神軍師としての才能を発揮した。
 現在は聖王代理の地位に着いたクロムの半身としてイーリスに残り、こうして内政に見事な手腕を振るう――……早い話が、クロムの溜め込んだ執務の消化をこなす毎日である。
 クロムは呪った。そりゃあ、執務を毎日のように溜め込んでしまう自分にも非はある。このことが余計に彼女へ苛立ちを呼び、必要以上に機嫌を損なわせる原因にもなっている。
 だが元はといえば、そこへ種を撒いた者が悪い。種を撒きさえしなければ芽吹くことはなく、こうして健やかに苛立ちが育つことはなかったのだ。
 いっそ、執務室中を小石で満たしてやろうか……。
 そんな悪態を吐くだけ無駄だ。どうせ彼は、嬉々として手早くそれらを処理してしまう。それに、彼がしたいことを理解できなくはないし、自分もどちらかというと利口な方ではない。が、いくらなんでもやり方というものがあるだろう。そう、たとえば――
「クロムさん」
「!」
 いつの間にか音は止んでいた。まっすぐに射抜く、というよりも貫くといった表現が相応しい彼女の視線は、無感情にクロムの顔へ注がれる。
「ペン」
 たった二文字の言葉を言い放たれて、まずは指摘されたとおり己の手に握られたそれを見る。
「お? あ、ああ……」
 次に目に入ったのは、細かい文字がびっしりと書き連ねられた手元の紙。黙って紙面と向かい合い、右下に己の名を書き連ねた。もちろん国印も忘れずに。
 再びクロムの手が動き出したことを確認すると、女性もまた無言で紙面へ視線を落とす。静寂を取り戻した部屋に、再び彼女のペンの音が響きだした。
 仕方がない、物事にはなんにだって向き不向きというものがある。端的に言うと、クロムは椅子に座ってただひたすらペンを動かすという事務作業が大の苦手である。むしろ嫌いである。稀にやる気を出して椅子に座っても、数秒ともたずに意識は他のものへ向かってしまう。
 結果、仕事を溜め込む。溜め込んで、一人では処理しきれぬ量となる。
 半身に救いを求める。叱られる。なんだかんだ言いつつ手伝ってくれる。クロム、注意力が散漫となる。叱られる。
 今回も原因が何であれクロムが集中力を途切れさせたことには変わりない。叱責されてしかるべきで、そのことについて文句のつけようがないことは明白であるが、だがしかし。
 “止まってますよ”、くらい言ってくれたっていいだろおおおおお!!
 声に出せない叫びに代わり、今夜振舞われる我が自警団副長の夕餉は全て熊肉で埋め尽くすことにしよう。
 ――クロムは泣かない。だって、男の子だから。
 今は亡き姉の愛情深い声を遠くに聞きながら、山積みとなった紙の束が消えうせるまで集中途切れることなく聖王代理は一心不乱にペンを走らせ続けた。

   * * *

「ああ、こちらにおいででしたかルフレさん」
 窓の外は漆黒の闇。確か、空の色を一番最後に確認した時は某騎士の甲冑よりも鮮やかな水色が広がっていたはずなのに、まったく時の過ぎ去る速さというものはかくも残酷なことである。
 聖王代理より直々に賜った栄誉ある執務……もとい、クロムが溜め込んだ仕事の大片づけを終えて執務室から退出したのは一時間も前のこと。それからこれまでの間に何をしていたのかというと、備品の整理から兵士たちの健康状態の確認までまぁ実にさまざまだ。
 普段に比べると妙に整っていると首を捻りはしたが、まぁ本当なら半日かけて行う作業をたったの一時間でこなしたのだ。自分で自分を褒め称えたいところである。そう、たとえば……褒美として疲れきった身体に甘味を与えてみたりとか。
 時間はまだ日付変更線を越えていない、ならばケーキの一つくらい食べたってばちは当たらないだろう。そうと決まれば厨房へ急ごう。今ならきっと夕餉の後片付けをしている最中だ。料理長さえ捕まえられればあとはおいしい時間が待っている。
 そう、思っていたのに。
 まったく、貴方はどこまで私の機嫌を地に落とせば気が済むんですか……。
 苦心して収めた怒りがふつふつと蘇る。
 返しかけた踵を戻し、ゆっくりとたっぷりと時間をかけて顔を上げた。
「…………」
 答えてなど、やらない。というか、よくもぁ何事もなかったかのように姿を現せたものである。そういうところが彼の長所でもあり、最も腹立たしいところであるのだが。
「執務室だろうと思っておりましたが、いざ扉を開けてみればぼろ雑巾のごとくソファへ突っ伏すクロム様お一人でしたので」
 涼しい顔でいけしゃあしゃあと口にする。なおも意固地に口を開こうとしない女のことなど気にも留めずに男は唇を動かした。
「本当に貴女はかくれんぼが得意でいらっしゃる。盗賊の職などにも向いているのでは?」
「……フレデリクさんは、私に殴られに来たんです?」
「まさか。私は申しましたよ、貴女を探していたと」
 あからさまに不機嫌な面をして男と向き合ってみたのだが、もうどうでもよいことのように思えて聖王代理の半身――ルフレはこれ見よがしにため息を吐いた。だめだ、このままでは話が進まない。話をする気もなかったが、このまま無為に時間を進められても困る。今のルフレには、何よりも優先したいミッションがあるのだ。それを完遂するまでは休むことなどとてもできない。
 目の前にいる腹立たしい男……自警団副長ことフレデリクの前で意地を張っている場合ではないのだ。
「で? 用事ってなんです。私、これでも忙しいので三十秒以内に済ませていただけるとありがたいのですが」
 では、温かく接するか? と問われれば話は別。
「別に今日中でなくても構いませんよね? 私たちは、夫婦なのですから」
 もちろん答えはノー一択だ。
 そう、フレデリクとルフレは神竜ナーガの膝元で永遠の愛を誓い合った夫婦である。いくらお互いがお互いの業務に追われて顔を合わす暇がなかろうと、帰る部屋はもちろん、ベッドに入る時間と朝目を覚ます時間は同じはず。
 だからお互いの時間が合った時に話をすれば良い。業務に関わりがない限り、わざわざ時間を作ってまで仕事中に会話をする必要などないと思っているし、それについては夫も同意見だと首を縦に振っていた。
 と、いうわけで、とびきりの笑顔でご退出願いましょう。そちらがされぬというのなら、よろしいこちらがいたしましょう。
「私、ただいま業務中ですので失礼します」
 答えを待たずに素気無くくるりと踵を返す。カツカツとわざと高く靴音を響かせて、さっさと二、三歩足を進めた――
「お待ちください」
 ――が。
「厨房は、管轄外のはずでは?」
 幅の広い袖口からむき出しとなっているルフレの細い手首は、次の瞬間鉄のプレートに覆われていない骨ばった手のひらでがっしりと掴まれた。そのままの姿勢でぐいと後ろへ引かれれば、前線で戦う騎士と後方支援に徹する軍師の力の差は歴然、為すすべなくルフレはあっさりとフレデリクに捕らえられる。
「ふ、フレデリクさ……っ」
「声が高いですよ。もうこんな夜分、寝ている方もいらっしゃるでしょうし、声を落としてください」
「なっ……! あ、貴方に言われずとも承知しています!」
「……だと良いのですが」
 言っていることと行動が伴っていませんよ、とでも言いたげにため息を吐く。
 って、そう思うのならこの手はなんなのですか!
 声に出そうとすれば、間違いなくこれまで以上にひときわ高い音になるだろう。そこまでは冷静に判断できたルフレは、しかし沸き立った衝動を押さえ込むことができず、代わりに空いた手でパチンと強く叩いた。
 ウエストに回された、フレデリクの逞しい腕を。
「仕方ないでしょう。こうでもしないと、貴女は私の話に耳を貸さないでしょうし」
 しかし、ダメージを受けたのはルフレの方だった。
 固い。人の腕とは、こうまで固くなるものなのか。無論、日々の鍛錬の賜物であるという答えは聞かれずとも分かるのだが、ああもう、一から十まで憎たらしいことこの上ない。
「ルフレさん」
 呼ばれてルフレは、何ですかと答える代わりに相変わらず涼しげな顔をきつく睨みつけた。唇は戦慄かせ、目には涙を滲ませて。
 すると、睨まれた当のフレデリクはその顔を見てプッと噴き出した。すみません、と口にしながら堪えきれない様子で。
「な、何が可笑しいんですか! フレデリクさん、私は本気で――」
「ええ、分かっています」
 ここまでくれば、もうルフレに逃げる意思はないらしい。そう判断したのだろうフレデリクはそっとウエストから手を離した。代わりにその手でルフレの目元に触れる。僅かな水分が、フレデリクの指先で空気に溶け消えた。
「ここ数日の間、貴女を悲しませてしまったのは私です。……申し訳ありません」
 そして、あっさりと。己の責を認めて見せたのだ。
 侮るなかれこの男、こう見えて恐ろしく負けず嫌い。意見の食い違いや言い争いが発生すれば、相手が折れるまで絶対に自分を曲げない。ことさらにこの妻が相手となると、輪をかけて意固地となる。
 ……それは、妻側とて同等ではあるのだが。
 夫のその面倒な性質を知っていたので、ルフレは思わず言葉を失った。いや、フレデリクの言うとおり、確かに今日を含めここ最近は大いに機嫌を損ねていた。そのせいで、どれだけ周囲にいた仲間たち、とりわけクロムとマークに苦労をかけたことか。
 そんなルフレの心境を読み取ったのか、ええ、あとでお二人にも謝罪しなければなりませんね、とフレデリクは微笑んだ。そして、すっかりと黙り込んでしまった妻の顔を覗き込む。
「ルフレさん」
「――――」
「ルフレさん?」
「――……これは、夢?」
「ルフレさん、立ったまま眠らないでくださいますか。さもないと、横抱きにして城内を練り歩きますよ」
「やめてください!」
 気がつけば至近距離に夫の顔があることに気がつき、素早く後退し一メートルの間合いを空けた。
 だ、だってフレデリクさんが自ら謝るだなんて、普通有り得ないじゃないですか……!
 大体、先ほどから言っていることも行動も滅茶苦茶だ。普段のフレデリクらしくない、一体どうしたというのだろう。まさか、サーリャに何か悪い薬を飲まされでもしたのではあるまいか。
「いいえ、サーリャさんとはここ数日お会いしておりませんし、念のため申し上げればヘンリーさんのご不興を買った覚えもありません」
 ……彼はしばらく顔を会わせぬ間に、読心術でも会得したのだろうか。
 折角空けた間合いをフレデリクは事も無げに詰めてくる。一応ルフレも負けじと後ろ足を同じだけ進めて、一定の間合いを保つ努力はした。だが、場所が悪かった。室内というこの環境が悪かった。あっという間に壁に追い詰められ、あとはただ距離を詰められるがままとなる。
「申し上げましたとおり、私はルフレさんにお話があります。そろそろ観念して、お聞きいただけると非常に嬉しく思いますが」
 なんという強気ぶり。本当に心から悪いと思っているのかと、盛大にルフレは頭を抱えた。
 いかがでしょうと答えを促すフレデリクの口元は微笑んでいるが、瞳は全く欠片も笑っていない。つまり、聞き入れてくれるまで離さないと、裏でそう告げている。それくらいのことはイーリスの神軍師と名高いルフレのことだ、誰に教えられるまでもなく気がついた。
「……ひとつ、質問が」
 だが軍師たる者、ただでは屈しない。たとえ負けが確定していようと、それなりの成果を得られなければ軍師と名乗る資格はない。ご安心を、交渉並びに策略は私にとって得意中の得意です。
「何でしょう」
「フレデリクさんは、私の機嫌を損ねたことについて申し訳ないと仰いました」
「ええ、その通りです」
「では、フレデリクさんは――」
 伏せがちだった瞼を上げる。自分よりも数十センチは上にある夫の顔を見、きりりと眉を吊り上げた。そして静かに、しかしここ一番の威圧を持って問いかける。
「……何が原因で、私が機嫌を損ねたとお考えなんでしょう」
 ここで彼が見当違いなことを口に出せば一発逆転、ルフレの勝ち。
 分かるわけ、ありませんよね。だってここ数日、今日までの間私たちは――
「――――……、」
 ――言葉を交わすどころか、顔を合わせることすら……していないんですから!
 しん、と二人きりの廊下は夜のしじまに支配される。本当に静かだ、いくら夜だからとはいえここまで人のいない時間帯が存在しただろうか。……いや、そちらに思考を割いている場合ではない。少しでも隙を見せれば、殺られるのはこちらである。
 ルフレはごくり、と生唾を飲み込み夫の動向を見守った。
 さぁ、どう出る……!
 フレデリクは少し押し黙った後、ぱか、と唇を開いた。
「……ひとつ。ここ数日の間貴女が朝目を覚ます時、すでに私の姿がなかったこと」
「!」
 驚いた。ルフレは大きく目を見開き口を開け、そして慌てて閉じる。名軍師たる者、思考を容易に顔へ出すべからず。
 だがフレデリクの進撃は、それだけに留まらなかった。
「ひとつ。その後はもちろん、昼も、そして夜も食事を共にしなかったこと」
「…………」
「ひとつ。夜も貴女の帰りを待たず、先に床へ就いたこと」
「……も、もう」
「ひとつ。その間、勿論夜の営みもごぶさ――」
「もういいです! もう……」
 どん、と音を立ててフレデリクの硬い胸板にパンチを見舞う。当然、先ほどと同様にダメージを受けたのはルフレの方であるが。
 拳には恥じらいと、そして純粋な悲しみをたっぷりと詰めていた。
 てっきり、女心には疎い人なんだとばかり思っていた。そう思っていないと、とてもやりきれなかった。
「もう、どうしてそこまでして、私のことを避け続けたんです、か……っ」
 もう一度おもむろに拳を振り上げて、どすり、と力なく胸の上に落とす。その衝撃で、ぼたぼたと両目から涙が溢れ出た。
 笑えない。本当に笑えない。この人は、女心とまではいかないが私に関することはきちんと把握済みであったというのだから笑えない。
 これはもう勝ち負けではない、致命傷だ。ルフレは自ら最悪のカードを引いてしまったのだ。
 そう、寂しかった。とても寂しかった。
 記憶は未だ戻らぬものの、孤独への恐怖はこの身体にありありと刻まれていた。特に、傍に居ながら傍に感じられないという絶望感。
 ――これからもずっと、私の傍にいてくださいませんか?
 そうルフレに告げたのは、他の誰でもないフレデリクなのに。そのフレデリクが、傍にいなかった。
 ねえ、もう嫌になってしまった? 嫌いになってしまった? 離れたくなってしまった?

 他の誰かを、すきになってしまった……?

「……私は、貴女に弱いですから」
 前から手が伸びて、再びルフレの目元に触れた。これまで幾度もルフレの肌に触れてきたその指先は、涙袋の溝をなぞるように優しく滑り、止まない涙を都度拭ってゆく。無骨な戦士のそれはとても柔らかく、飛び切りの温かさを孕んでいてあまりの心地よさについ瞼を閉じてしまいそうになる。
「私は貴女を前にすると、どうしても隠し事ができなくなるのです」
「かくし……ごと」
「ええ、そうです。さぁルフレさん、どうかお手を」
 私に、預けてください――
 どこまでも騎士である男は、左手を後ろへやり上体を少し屈ませて、最高の礼をもって私に右手のひらを差し出してきた。
 つまり、フレデリクはルフレに隠し事をしたかった。隠しおおすには、もうそもそも会話をシャットアウトする必要があると判断した。だから、ルフレと顔をあわせることすら拒んだ。
 そして今、彼はルフレに手を貸せと言っている。
 意味がわからない。そこでそう素直に、はいわかりましたと預けられるはずがない。
 けれどフレデリクは、ここでお得意の“強情っぱり”を発動した。何を言ってもにこにこと微笑んだまま無言を貫く。こちらが口を閉ざしてもだ。胸を、肩を叩いても動じない。しかし立ち去る隙は与えない。
 “よし”を与えられるまで待つ忠犬のよう、と事あるごとに女性陣から聞かされてきたが、彼女たちにはいったいどのへんがだと小一時間問い詰めたい気持ちでいっぱいだ。それは対ルフレさんだからよと、のほほんとした微笑みで一蹴されるのが関の山だが。
 ルフレはこれ見よがしに深いため息を吐いた。吐いた全てを取り戻すように、スーーっとこれまた大げさに息を吸い込み、そして
「ええもう、わかりました! 私の負けです、どこへなりと連れて行けばいいでしょう!」
 と、広げられた手のひらに己のそれを音が出るくらい勢いよく乗せた。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて、参りましょうか」
 フレデリクは乗せられた手のひらを優しく握り締め、足を交互に前へ動かし始める。軽く手を引かれる形でルフレの両足も進めざるをえなくなった。けれど、前のめりになる、ということはなく、むしろ非常に歩きやすい。それは足の長いフレデリクが、わざわざルフレの歩幅に合わせてくれているからだという結論へ達するにはそう時間がかからなかった。
 ……本当、敵いませんね。
 まだ何も知らされていないにも関わらず、たったこれだけのことで許してしまいそうになる自分にも。歩きづらくありませんか? とこちらを気遣うフレデリクに対し、思わず大丈夫ですと笑顔で答えそうになったルフレは、苦し紛れに三度目の拳を彼に見舞った。

   * * *

 今目の前に立ちはだかるものは、それはそれは見慣れた景色だった。
「こちらです、ルフレさん」
 到着を知らせるフレデリクの言葉に、はぁと気の抜けた返事しか返せない。目の前のそれとフレデリクの顔を交互に見ると、何か問題でも、と夫は緩く首を傾げて見せた。
 問題どころか、大問題です。少なくとも、私には意味が分かりません……。
「ルフレさん。僭越ながら、この扉を開けていただけますか」
「扉……って、」
 改めて問題のそれ――扉へ真正面から向き直る。少し立て付けの悪い、楡の木の一枚板で仕立てられた一品だ。取っ手は篭手を装備したたくさんの兵士に触れられたのだろう、あちこちに引っかき傷が入っている。
「ええと、ここって自警団の休憩所ですよね?」
「ええそうです。貴女も何度かいらしたことがあるでしょう」
「何度かというか、ほぼ毎日来ていますよ。……あっ、でも、」
 今日もこなしてきたルフレの業務。備品の整理から兵士たちの健康状態の確認。これらに問題があれば、すぐさまこの部屋へ駆けつけて数の確認と該当の兵士へ直接詰問を行う。それは毎日欠かさず行っており、また悲しいことにほぼ毎日数が合致せず、また逃げ回る兵士がいるのでもうこの場所へくることは日課となっていた。ただ、
「今日は……初めて、ですね……」
 早く終わらせたい一心で先ほどは気にも留めなかったが、むしろフレデリクが大人しく謝罪したことよりもこちらのほうが大問題だったように今更気がついた。商魂たくましいアンナや甘いものに目がないガイア、己の健康状態を省みず修行を続けようとするティアモや逆に修行をサボろうとするヴェイクがいる限り、まず何事もないなどということが有り得ない。
 そしてここへわざわざ連れて来られたということは、その理由をフレデリクが承知している可能性が高い。そう思い、慌てて夫へ体を向き直そうとするがその前に背中をトンと押され、無理やり扉の前へ一歩近づけられた。
 隙間から、温かい光が漏れている。さらに、
「どうか扉を。皆さん、お待ちかねです」
 フレデリクの言うとおり、大勢の人間の気配がする。
 ルフレは覚悟を決めた。ごくりと喉を鳴らし、そっと手を取っ手にかける。ゆっくりと右に回して、ガチャリと開錠を知らせる音と共に扉を引き寄せれば……

「ハッピー、バースデーー!!」

 幾重にも折り重なった声と共に、ぱぁん、とクラッカーの鳴らされる音が響き渡った。
「!」
 思わず閉じていた瞼を恐る恐る開ける。うっすらと視界に入り始めたのは、よく見知った仲間たち。そして更にその後ろには、とてもよい香りを放つルフレの大好きなたくさんの料理。
「え……フレデリクさん、これ……っ」
「父さん、遅かったじゃないですか! てっきり僕、最後の最後で失敗したのかと思いましたよっ」
 まとまっている一団の中から外れて駆け寄ってきたのは、未来から来たという我が息子。外せない用事があるからと、今日一日外出していたはずでは。
「マーク、それってどういう」
「おいルフレ、今回ばかりはフレデリクを許してやってくれ。あいつなりに精一杯だったんだ」
「く、クロムさん……」
「そうそう、フレデリクって不器用じゃない? だからね、あえてルフレさんと顔あわせたり話ししないようにしてたんだって。もうほんっと、ひどいんだから!」
「リズさんまで……」
 皆が皆、口々にフレデリクの減刑をルフレに申し入れてくる。さすがの名軍師にも、これはお手上げだ。とっくの昔に許容範囲を超えている。
 このままでは、ルフレにとっては許しがたい罪を犯した男が多数決により無罪放免とされてしまう。せめて理由を、皆が皆口を揃えてそう訴えてくる理由を知りたい。
「フレデリクさん、わかるように説明してください。これは、どういうことです!」
 口頭弁論、というよりも助けを求めるように、未だ扉の外で中の様子を静観しているフレデリクに声をかけた。その表情はどこか、誰よりも嬉しそうな、穏やかな灯りを宿していた。
「……貴女は以前、自分の誕生日がいつであるかわからないと仰っていました」
 ゆっくりと語り始めたフレデリクの言葉に、ええ、とルフレは注意深く肯定する。
「ですが、私はどうしても感謝の気持ちをお伝えしたかった」
 フレデリクの右手には、いつの間にか簡単な包みが握られていた。彼の指の太さに比べるとその包みは些か小さく、少々てこずりながらルフレの目の前で開帳する。するすると中から引きずり出されてゆくのは細かいシルバーのチェーン。
 その先で。
「ご存知ですか? 占いによると、今日の日に生まれた方は“洞察力に優れ、創造力豊かで好奇心旺盛”な方なんだそうですよ」
 キラリと光を反射したのは、緑の苔が入り混ざる、涙型にカットされた水晶のペンダントトップ。美しい森林を、ガラスの中に閉じ込めているよう。
「まるで、貴女のことを言っているようです」
 呆然としている間にいつの間にか目前へ迫ってきていたフレデリクの腕が、ルフレの頭を包み込むように広げられた。ひやりとした感触が胸元に落ち、首の後ろでカシャンと金属の擦れる音が響く。 
「お誕生日、おめでとうございます」
 そして言葉と共に、その場で跪いた。
 女王に忠誠を誓う戦士のように。愛する者へ求婚を行う騎士のように。
「私は貴女と出会い、今こうしていられることを、大変いとおしく思います」
 だらりと垂れ下がった右手を取り、甲へ恭しく口付けた。音がなった瞬間、引っ込んだはずの涙が再び溢れ出す。
「ふ、れでりくさん……」
「はい」
「わたし……わたしの、誕生日なんて……」
「ええ、貴女の誕生日は依然不明のままです。ですので、私が決めさせていただきました」
「どうして」
「先ほど申し上げたとおりです」
 預かった小さな手を離すことなく折り曲げた膝を伸ばし、今度こそ長い腕と大きな胸でルフレの顔を包み込む。耳元へそっと唇を近づけて、
「貴女がこの世に生まれてきたことを感謝する日を、私はどうしても欲しかったのですよ……」
 恐らく当人たちにしか聞こえぬ音量で、フレデリクは優しく愛を囁いた。


あなたに愛の、判決を



「……いいなぁ母さん。僕も、誕生日が欲しいです」
 両親と少し離れた位置に腰を下ろしたマークは、ここ数日間の空気はどこへやら、ラブラブな空気をかもす二人に少し目を細めながら小さくほつりと呟いた。
「ふぁれ? まーふのはんりょうひって」
 目前に置かれたから揚げを口内へ放り込んだばかりの、右隣に腰を落ち着ける緑の騎士がいち早くマークの言葉に反応し、思わずそのまま口に出す。とたん、食べ終わってから話せ、汚いだろう! と彼の妻に脇を小突かれて、慌てて飲み込もうとしたのかそのまま喉に詰まらせ一時緊急事態となった。
「……えっと、マークの誕生日って5月の5日だって言ってなかった?」
 とんとん、と胸を叩き、目には涙を滲ませながら水を喉へ流し込み何とか復活を遂げた騎士――ソールが改めて問うと、マークはてへへと照れたように微笑みながら後ろ手で頭を掻き、
「それは仮です。誕生日を祝ってもらえる皆さんが羨ましくて、勝手にそういうことにしてしまいました」
 ごめんなさい、と素直に頭を下げる。
「そりゃまた、策士の子は策士だね……」
 まぁ、下手に無いって言われるよりも、勝手に決めておいてくれたほうがこちらとしては祝いやすいからいいけどね、と女性ながら非常に頼もしい赤の騎士が追加のオレンジジュースを勧めてくれた。先ほどのソールの妻、ソワレだ。さらにその隣では二人の娘であるデジェルと、仲良しの友人であるシンシアがこっそり酒を開けて顔を真っ赤に染めている。きっと、後でさぞかし大目玉をくらうことだろう。
「まぁ、これでお前の誕生日もわかったんじゃないか」
 飄々とした声と共に、空席となっていたはずのマークの左隣へ茶色い影が姿を現しどかりと腰を下ろした。どこからともなく漂う甘い香り。これは、旬のオレンジを用いたマーマレードの香りだ。
 となると、該当する人物は一人しか居ない。マークは右側へ向けていた体のうち、顔だけをそちらへ向けて首を傾げた。
「ガイアさん、それは一体何故」
 香りの元となる果物と同じ髪の色を持つ青年は、口から棒付きキャンディーを取り出してニヤリと笑う。
 あ、これはきっと、ろくな事を考えていない。
 しかし思い至った頃には遅かった。
「お前の誕生日は、今日から十月十日後」
 答えが告げられたと同時に、右隣からソールが口から酒を噴いた。ガイアアア! とソワレが隣二人に負けないくらい真っ赤な顔をして怒りを露にする。
 甘党の盗賊、ガイアはまだ来たばかりだというのに笑いながら席を立ち、
「まぁ、そういうこった」
 その場にあった小ぶりのケーキをちょいちょいと摘み、取り押さえられるよりも早く部屋を後にした。

 狼狽する二人を余所に、表情を変えることなくその場に座ったままのマークは何とはなしに口にする。
「……今日は、ウードのところへ泊めてもらいましょう」
 他の誰でもない、未来の自分のためだけに。

 そんなやり取りが会場の隅で行われていたなど露知らず、最後まで二人は幸せそうに笑っていた。








7月21日の誕生石は「モス・アゲート」。夫婦の和合と豊穣をもたらす森の石。作中でフレデリクさんがルフレさんにプレゼントしたペンダントです。志良さんへ、心からのハッピーバースデイを込めて……お誕生日、おめでとうございますー!!
meg (2013年8月 8日 11:10)

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