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 ジワジワと、蝉の声が響く学び舎での出来事だった。
 終業式が終わり、今学期最後の掃除当番を終えるべくゴミ袋を両手に抱え、ゴミ捨て場のある裏門へ移動している最中のこと。
 最初に断っておくが、私は悪くない。
 どちらかというと、その場所を選んでそれを行っているあちら側に非があると思う。
「――さんと付き合ってるんですか?」
 少しキーが高めの少女の声が響く。確か彼女は、隣のクラスのマドンナだ。女の子らしい、可愛らしい子という印象がある。普通の男子ならば、きっと誰もが守ってやりたいと思うに違いない。
 そしてその相手を務める男子は、校内一の美男子と呼び声高い、私の最もよく知る人物だった。
「いや……俺と彼女はそのような関係ではない」
「だったら!」
 これまでよく女子に呼び出される彼を見送りはしてきたが、実際にその場面を目にするのは初めてだった。なるほど、これは確かにそうだな。呼び出しを終え戻ってきた彼の顔が、いつも疲れ切っているのも無理はない。彼女達にとって一世一代に値する申し出を断るというのも、相当な気力を使うのだろう。
 しかしよく聞こえなかったが、一体彼は誰とそのような関係にあるのではと勘違いされているのだろうか。肝心な名前が聞こえなかった。
 ……いや、別に気になるというわけではない。彼が違うと言っている以上、その情報が間違いであることに違いないのだ。だから、これは単純な好奇心だ。興味が首をもたげただけだ。
 とにかく、相手は同じクラスの誰かか、または陸上部で付き合いのある女子マネージャー辺りか。そもそも、彼と最も長い時間を過ごしているのは恐らく私だろうから、そのような相手がいるとすれば真っ先に気が付きそうなものだが……。
「私と付き合ってください、私を好きになるのはそれからで構いませんから!」と彼女は涙交じりに叫ぶ。女性の涙というのは、彼が最も苦手とするところだろう。それだけ彼女は必死なのだということは分かるが、彼が不憫に思えて仕方がない。
 さて、彼は一体どのように答えるのやら。いや、これまでのこともあるし、承諾する気はないと思うのだが。何故か心臓が早打ちし、気温が高いからという理由だけではないだろう汗が、こめかみのあたりを滴り落ちた。
「……俺、は」
 重苦しそうに彼は口を開く。泣き喚く蝉の音も耳に入らない、水を打ったように辺りが静寂に包まれたような錯覚に陥る。
「付き合ってはいない、が、俺は彼女が好きなのだ」
 突然何か、がぁんと鈍器で頭を叩かれ真っ暗闇の世界の底に落されたような、そんな感覚を覚えた。
("誰"、が、"誰"、を、好きだって?)
 情けないことに、それからの二人の会話を全く覚えていない。気が付いたらもう二人はいなくなっていて、両手に持っていたはずのゴミ袋は二つとも地に落ちていた。

「……セイバー? セイバーったら!」
 あれからどのくらい時間がたったのだろう。鈴の鳴るようなその声が私をここに呼び戻すまで、そこで永遠のような長い時間を過ごしていた気がする。
「え、あ……凛?」
「ゴミ出しに行ったっきり、なっかなか戻ってこないんだもの。こちとらあなたに用があって待ってたっていうのに……んもう、見に来ちゃったわよ」
 そう言って彼女は口を尖らせる。ごく一部の人間の前でしか見せないその素顔。そういえば、自分の周りには美しいものが多いな、とぼんやりと思う。彼女もまた、いや先程の彼女以上である、校内一のマドンナだった。
「あ、それは……ご心配をおかけしてすみません」
「別に心配したってわけじゃあ……って、何かあったの?」
 私の顔を覗き込むなり、彼女は表情を一変させた。この友人は、優しい。何故その優しさを隠そうとするのか理解出来ないが、まぁそれが彼女らしいということなんだろう。そしてそんな彼女を私はとても好いていた。
「いえ、特には。……あまりの日差しの強さに、少し眩暈がしただけです」
「ふぅん? とてもそうには見えないけどね」
 と、口ではそう言いながらも、それ以上のことを追及してこようとはしない。そこも、私が彼女を好いている理由の一つでもある。
「ところで、私に何か用があると言っていませんでしたか?」
 教室を出てから約三十分。同じく掃除当番だった者は、とっくの昔に帰路へついている頃だろう。ようやくゴミ捨て場へ辿り着き、一つ目のゴミ袋を放り入れる。
「ああ、そうそう。昨日話した花火大会、覚えてる?」
 そしてもう二つ目。一つ目を放り入れた際に少し乱してしまった網を直して、今度は丁寧にその中へ差し入れた。
「ああ、未遠川で行われるという……」
「そうなの!」と彼女は碧玉の双眸をキラキラと輝かせる。
「なんと今年は三万発だって! 遠坂の名を利用して、特等席を確保してやったわ。ね、どう? 浴衣ならウチにあるから、みんなで見に行かない?」
「またそんなことで名を使って……」と苦笑を漏らすと、「いいじゃない、こんな時くらいしか使えないんだから」と目を細めて優雅に微笑んだ。
「皆?」
「ええ。私でしょセイバーでしょ、士郎に桜にイリヤ、アーチャーにクーに、それにランサー!」
 その名前が出た瞬間、びくりと肩を強張らせる。あれしてこれして、と楽しそうに花火大会へ思いを馳せる彼女には、幸いその様を見せずに済んだらしい。
「ランサー、も……」
「? ええそうよ、それがどうかした?」
 あんた達仲いいでしょ?と、あっけらかんと彼女は言う。
『俺とお前は一番の親友だ』
 彼の台詞が木霊する。そう、"親友"。"一番"の"親友"なんだ私達は。
 初めてそのことを言われた時は、心から嬉しかったはずなのに。なぜだろう、今思い出すと、何とも言いようのない複雑な感情に心を支配される。まるで起き抜けのタイミングで、ブラックコーヒーを口に含んだような、苦々しさ。
「……すみません、凛」
 なんとか表情に微笑みを貼り付けて、両手の人差し指でバッテンの記号を差し出した。

 *

 家に帰りついて早々、バスタブに湯を張りはじめる。そろそろ花火大会が始まるのだろう、空へは"旗火"が放たれて、パン、パパンと小気味よい音が響いていた。
 ……彼は、行くだろうか。凛や士郎達と向かうだろうか、それとも――――
『付き合ってはいない、が、俺は彼女が好きだ』
(…………)
 徐々に水嵩を増す湯船を見つめたまま、その動きを止める。
 沸き立つ湯気の所為でそこだけ気温が上昇し、見る見るうちに体中から汗が流れ出る。前髪サイドの髪を伝って、湯船の中に汗が一滴ぽちゃん、と零れ落ちた。
 その音に、ようやく我に返る。いけない、このままではだめだ。
 湯はもう半分ほど溜まった。先に外で体を洗っていれば、そのうち丁度良い高さまで溜まるだろう。
 制服を荒々しく脱ぎ、洗濯機の中へ放り込む。リボンを取り外し、意外と長さのある髪を後ろへと払った。小さな胸を納めるブラジャーのホックを外したところで、ふとすぐ前にある洗面所の鏡に目が行く。
 そこには、おおよそ女性らしさとは無縁に近い、私の貧相な体がありありと映し出されていた。
(……騎士とは、勇敢に戦い、か弱き女性を守るもの)
 私もそれを目指してきたのだから、それは致し方ないと思うのだけれど。
 自分を含め、彼の周りにいる親しい女子は、なんだかんだと言って皆心も体も強い者ばかりだが。
(やはり、彼もああいった女性が好みだろうか……)
 昼間の彼女を思い出す。背は私と同じかむしろ低いくらい、ふんわりと巻かれた長い髪の毛に、少し垂れ気味の大きな瞳。ひどく筋肉質で固い私の体に比べ、弾力のある柔らかそうな白い肌と、女性らしいふくよかな胸。まさに"姫"と跪くに、相応しい存在。
 ぶるり、と大きく頭を振り、一気にそれを取り去った。ドライマーク付き衣類用の洗濯籠に放り込み、さっさと風呂場への扉をくぐる。無心に髪と体を洗い上げ、程良い高さまで湯が張れたことを確認して蛇口をキュッと捻った。
 右足から、バスタブの中に差し入れる。湯温は大体37度、人肌と同じ温度だ。熱い夏には、これくらい温い方が私には丁度良い。
 狭いバスタブの中、体育座りになるよう足を折り曲げて座る。ぱしゃ、ぱしゃと掌で水面を掬って、零す。
 磨りガラスとなっている窓からはオレンジ色の夕日が差し込み、窓際に設置されたラジオからは切なげなポップナンバーが流れてきた。
 おや、と顔を上げる。心の中でその歌詞を追う。
 そうだ、私はあの時優しい友人の誘いを断って、彼女から、そして彼から逃げるようにして学校を後にした。何かを思うことのないよう、無我夢中で走り帰った。
 更に今、私はこうしてバスタブの中で、ラジオから流れる音楽を聴いている。
 ……なんだ、それはまるで今の私そのものではないかと、その歌詞の通り自嘲気味に笑みを零した。
<すき……>
 伸びやかで温とい女性ボーカルの歌声が、やけに耳に響く。
<すき……>
 それは、ぽっかりと大きく穴の開いた私の心に、じんわりと優しく沁み込んでくる。
「……すき」
 不意に言葉にすると、ぽたり、ぽたりとどこからか頬を伝って雫が湯船に零れ落ちた。
「すき、すき、すき、」
 それは次々と止め処なく落ちてきて、湯の水嵩を増すばかり。
 果たしてそれは蒸気による汗か、濡れた髪から零れ落ちる水滴か、あるいは――――
「す、き」
 ああ、そうか。そうであったか。
「すき……――――」
 湯船から飛び出た両膝を、両腕でギュッと抱え込む。瞼を当てれば、途端にその乾いた山へ温かい雨が降り注ぐ。
(わたし、は……)
 幼馴染で、一番の友人で、何者にも代え難い親友で。
 そう思って、そう信じ込んでいつだって傍にいた。いつも傍にいることが当たり前だと思っていた。
 いつぞやか、彼は言っていた。"恋する女性が苦手"だと。"友人として俺の傍に在るお前といると落ち着く"と。
(このままでは、貴方の傍にはいられない……)
 湯の温度は徐々に冷え、剥き出しとなっている肩が寒気にぶるりと震える。
 明日からは夏休みだ。よかった、本当によかった。きっと当分、貴方と顔を合わせなくて済む。きっとその間に、心の整理は付けられる。
(次貴方と会う時は、きっと今まで通りに――――)

 そんな中、脱衣所の外、廊下に放り出されたままの鞄の中で、電話の着信を告げる携帯電話の演奏が鳴り響く。留守番電話サービスに切り替わるまでの長い時間、延々と流れ続けていたことに、私は最後まで気が付くことはなかった。






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meg (2012年9月20日 09:51)
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