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「暑い、な……」
「暑い、ですね……」
 蝉の鳴きわたる夏の日の午後。突き刺すような強い日差しと、どこまでも澄み渡る青い空。畳の部屋の中には、ひんやりと冷たい、木でできた低いテーブルに突っ伏す彼女と、はたはたと団扇を扇ぎ、自分よりも彼女へ多く風を送ってやる彼の姿がそこにあった。
 麦茶が入れられたグラスは大量の汗をかき、すでに氷の姿はそこにない。ゆらりと体を起こしたかと思えば、彼女はただただぬくいそれを喉に流し込み、手に付いた元々は水滴であったものを、自身の腕になすりつける。それで少しでも涼を得られればと思ってのことだが、この亜熱帯を思わせる気温の前にはその願いが叶うことはなく。結局はそれを、自身が身に纏うワンピースで拭き取ることになった。
 再び、先ほどとは少しばかり位置を変えて、机に突っ伏す。ちらりと彼に視線をくれてやれば、困ったような笑みを浮かべて、変わらず団扇を扇ぎ続けていた。
「何がおかしい」
「いや……いかに騎士王とはいえ、この暑さには弱いらしい」
「当たり前です。我がブリテンでは、ここまで気温が上がる日などなかった」
 決してこの地が嫌になった訳ではないが、こうまで猛暑が続くと、流石に祖国が恋しくなる。とはいえ、一日の中で四季が巡ると言われるほど気温が目まぐるしく変化する祖国も祖国で、過ごしやすいとは決して言えないが。
「せめて、雨でも降ってくれればまた違うのだが」
 と、縁側の外に広がる空を見る。夕立の一つも期待したいところだが、見るからに雲など一つとしてなく。蝉の鳴き声が、鼓膜をただただ震わせるのみ。縁側に設置された蚊取り線香の香りが、鼻先をくすぐる。
 まさに、正しい日本の夏、だった。
「雨、か……」
 それまで絶えず扇がれていた団扇がはたと止まる。団扇の風からは、思いのほか涼を与えられていたようで、ついつい不満げな顔をもたげる。
「騎士王よ、いいことを思いついたぞ」
 ぱっと彼の視線がこちらに向けられ、私のそれと搗ち合った。すると彼は、いたずらを思いついた子供のように、楽しそうに笑ってみせたのだった。

 *

 大き目の麦わら帽子を手渡され、庭へと連れ出された。太陽の光を十二分に浴びた地面は、サンダル越しでもその熱さを伺える。母屋に居た時の、何倍ものスピードで肌から汗が噴き出てくる。日陰になる場所が一つとしてない、こんなところに連れ出して何のつもりだと不満を口にしようとしたところ、彼がしゃがみ込んで、何かを仕掛けている姿が目に入った。
 彼の目の前にあるのは、水を供給する蛇口。そこにホースをかまして、逆側の先に何かを取り付けている。よし、と一人ごちたあと、すっくと立ち上がり、私を見てにやりと笑った。
「見ていろ、騎士王」
 そのホースの先を、綠が生い茂る垣根に向ける。蛇口を捻り、ホースの先に付いた突っ張りを引く、と。

「…………!」

 水が霧となって、周囲に散布されていく。時折吹く風がそれを浚い、こちらに向かって投げかけてくる。肌にかかるそれは、熱によってあっという間に蒸発する。が、絶えず流れてくるものだから、温度が上がることはなく。
「如何か?」
 垣根に向けていたそれを、直接私にかからないように少し内側へ向ける。より多くの霧が周囲を包み込み、今までとは比べ物にならないほどの、心地よい涼が空間を支配した。
「これは、素晴らしいな!」
 先ほどまでの倦怠感が一気に消え去る。水を得た魚とはまさにこのこと。
 彼は満足げに微笑むと、もっとすごいものを見せてやると言って、匠みにホースを操りだす。水の量と散布する形態を調節し、プシャッと音を立てて扇状に水を撒く。一気に地面は水けを帯び、湿った空気がさらに周囲の温度を下げる。見てみろと指を指され、その先に目をやってみれば、
「虹……!」
 空に浮かぶものに比べたら大分小さく、ゆらゆらと揺れて今にも消えてしまいそうなくらい心許ないものではあったが。手を差し伸べれば掴むことができるのではないだろうかと、思わずそれを実行する。結果、ただ水を掬うだけではあったが、確実にこの手は虹の中を通っていった。
「貴方はすごいですね、ランサー。手で、虹を編出してしまえるなんて……!」
「気に入ってもらえたようで、何より。なに、特に難しいことではない。コツさえ掴んでしまえば、お前でも出来るようになるさ」
「なんと! ならば、是非教えていただきたい!」
「な……っ!!」
 言うよりも早く、この手が彼の持つホースを奪いにかかる。我ながら、子供じみた行為であったと、今となっては猛省の限りだ。かくして私の手はホースの口を平たく掴んでいた彼の手を剥がし、その口は正しい形となって、水は正しい方向へと溢れだす。しかも、彼の力で加減を抑え込んでいたそれは大きく震え、私の方へと襲い掛かってきたのだ。そう、水が。私の方に。
「あ……」
「…………」
 その展開について行くことが出来ず、私はただぼんやりとホースを右手に掴んでいた。目の前では、彼が慌てて蛇口を捻り閉じている。徐々に徐々に勢いが収まり、遂には一滴も出なくなった。だが、水気は一切引くことなく。むしろ、とても近い位置から雫となって、ぽとり、ぽとりと落ちてくる。彼は仕事を終えてこちらに向き直ると、呆然とした面持ちで私を見上げた。

 ようやく自身の身に起きた出来事を理解する。
 ああ、そうか。私は、ホースから流れ出た水を真正面から受け止めてしまったのか、と。

「き、騎士王……」
 ぶるりと顔を振ったあと視線を左右に動かし、こちらを真直ぐ見ようとしない。心なしか、顔が紅い。何をそう、狼狽することがあるのだろう。
「あ、そ、そうだ、タオルを……!」
「いえ、気にするな。これはこれで涼しいものです」
「いや、そういう問題では!……ああもう、少しそこで待っていろ、すぐに凛殿に伝えて――」
「……ディルムッド」
 涼しいという台詞に嘘はない。だが、大きく水をかぶりみすぼらしい姿となったこの状態。何だか言いようのない敗北感に、ひどくかられたのだ。
 踵を返して母屋に戻ろうとする彼のシャツの裾を、ぐいと引っ張る。その反動で、最上級の敏捷スキルを持っているとは思えないくらい大げさにバランスを崩し、彼は地面に背中を打ちつけた。
 彼が上体を上げようと必死にもがいている間に私は前へ回り込み、上から彼に跨る。
 彼の美しい顔に、私の小さな影が差した。
「不公平、ではないか?」
「……は? あいや、その……。セイ、バー……?」
 双眸を見開いて私の姿を確認するなり、みるみる内に彼の顔に紅が広がる。
「なんだ、のぼせでもしましたか。ならば丁度良い。その熱、私が冷ましてあげましょう」
 彼の倒れたそこは、運が良いことに蛇口のすぐ傍で。彼に比べ幾分と短いこの腕でも、容易に手が届くところにそれはある。ホースの口は、未だこの手の中。ゆるりと腕が蛇口に延ばされる。その光景を、彼はさも恐ろしいものを見るかのように、元より大きく見開かれたそれを、更に大きくさせた。
「さぁ、お覚悟を――――!!」
 その直後、ぷしゃあ、と小気味よい音を立てて、そのホースの口から勢いよく透明の液体が発射されたのだった。

 *

 結局あの後、二人雁首を揃えて主である少女に叱られる羽目となった。また、更に私はと言うと、どうしてあの場面で彼があんなにも頬を染め、狼狽したのか、その理由を知ることとなる。
 当時の私の服装は、白い薄手のワンピース。その日に限って「女の子なんだからコッチのオシャレも楽しまないと!」という主に逆らいきれず、水色に白い水玉模様の入った可愛らしいレース生地の下履きを付けていたことを、すっかり失念していたのだ。
 つまり、は。大いに水を浴びたそのワンピースは、その先を見通せるほどしっとりと濡れ濡ったわけで。

(も、もう顔を合わせられるものか……!!)

 それからというもの、数日に渡り、彼が私の手により衛宮家出入り禁止となったことは、言うまでもない。






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meg (2012年9月20日 12:20)
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