Möbius - 01
目の前に広がるそこは、暗い暗い、闇の中だった。
あれ、おかしい。わたしは確かにさっきまで、明彦の腕の中にいたはず。そこは学校の屋上で、太陽が眩しい、とても綺麗な青空の下だった。明彦の腕の中は、すごく心地よくて、なんだか急に眠気が襲ってきて、微睡んで...。それがどうして、こんなところに。
...明彦?あれ、あきひこって、誰だっけ...?
『母似香。』
どくん、と大きく心臓が胸打った。頭蓋骨の内側から、どこかで聞いたことのある、甘みを含んだ声がわたしに呼びかける。
『僕と一緒に、世界を』
せか...い?
『救うんだ。』
すくう...?
そう、心の中で呟いた瞬間、目の前で映画のフィルムが逆再生を始めるがごとく、ぐるぐると"世界"が回りだした。様々な声が折り重なって、わたしに降りかかってくる。
それぞれが何を話しているのか、全く聞き取ることができない。確かなのは、それらは全て自分に向けられたものであり、とても大切にしていたものであるということ。そして、それらが頭の中から吸い出され、消去されていくという感覚。"なんだっけ?"と思う間もない。何を、どれを忘れたくないのかも、何も思いつかないまま、なすがままに、消しゴムで消されていく。もう、このまま目を閉じて、いっそ身を預けてしまえば楽なんじゃないか。そう、思った時だった。
突如、胸元から光が溢れだす。出たくない、行きたくないともがいているような気がして、咄嗟にその光を抱きかかえるように、両腕で自分自身を抱きかかえる。
「だ、だめ!」
けれどそれでは到底抑えることは出来ず、一際大きく光を放ち、その後、あっさりと収束した。無意識に閉じていた瞼を恐る恐る開けると、目の前には、整然と並ぶ21枚のカード。ただ、どのカードも、息を吹きかけた途端、消えてしまうだろう弱弱しい光を灯していた。
どれも見覚えのあるカードだった。愚者、魔術師、女教皇、女帝、皇帝...。大アルカナと呼ばれる、22種のタロットカードだ。その中から1枚、手に取ろうと腕を上げた途端、1枚1枚、ぽろぽろと崩れだす。慌てて拾い集めようにも、手は空気を掴んだだけで、その想い空しく、カードの持つ数字の大きさに関係なく無作為に消えていく。どうしてだろう、消えていくたびに、言いようのない不安感がわたしを襲った。
ついに、それでも最後まで残っていたカードの一枚が、隅から徐々に消えだす。それは、17の数字を持つ、表面に大きな"星"を描いたカードだった。
消えるに従って、わたしの心がこれまで以上にざわめきだす。怖い、というか、寂しい。とても、とても寂しい。こういう時、わたしはどうやって耐えていた?どうしよう、思い出せない。そうやって燻っている間にも、徐々に徐々に、消えていく。それはまるで、消えたくない、消えたくないと叫んでいるようにも見えた。
欲しい。どうしようもなく欲しい。少し骨ばった、力強い温かい手とか、わたしの名を恥ずかしそうに呼ぶ、艶のある優しい声とか。
「待って...。」
どんどん溶けて、消えてなくなっていく。
「やだ、だめ、行かないで、お願い...っ!!!」
もはや、誰に向かって叫んでいるかもわかっていない。でも、それはどうしても、失いたくない"誰か"であることは明白で。必死に手を伸ばし、掴もうとする。それでも呼び声空しく、次の瞬間、最後の一隅まで空気に溶けて、消えて行った。
周りの風景が元の通り闇へと戻り、しん、とする。私の胸には、"虚無感"という名の大きな穴が残されただけだった。
『...さぁ、還ろう。』
またも、頭の中で鳴り響く声。わたしはこの声の主を知っている。ううん、わたしはこの声の主を知らない。頭が、割れるように痛い。
『はじまりの、時間へ...』
ふ、と、自分のいる場所から少し先に、出口のような、白い光が射す。
そう、だ。行かないと。
たしか、居候させてもらっていた親戚が海外へ転勤することになった、とか、で、でもわたしは日本を離れたくなくて、そこで、元より叔父さんと仲がよかったという人が理事を務める、全寮制の高校へ転校することになったんだった気がする。その、高校の名前は、確か......。
ふらりと、その光に向かって歩き出す。いや、上も下も右も光もわからない、ただその光しか見えていない空間だから、歩く、という表現が適格かどうかはわからないけれど、とにかく、それに向かって進みだす。
『そう...。振り返ってはだめだ。そのまままっすぐ進もう。...大丈夫、僕が傍にいるよ。』
振り返っては、ダメ...。前へ、ただ、前へ。大丈夫、怖くない。だって、あなたと一緒だから。
そう、10年前のあの日から...わたしたちは、いつだって共に...。
「―――母似香様。」
meg (2012年4月11日 15:29)
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